時代は

関東地方でも1日の最低気温が10度を下回り始めた10月の下旬、毎年この頃から、私は会う人会う人に「時代は冬ですね」というギャグを披露してまわっているのだが、これが非常にウケが良い。「時代」という100年単位のスケールと並べた時、冬はあまりにも無力である。

今年も例年通り、「時代は冬ですね」と言いかけて、今日11月12日、東京は最高気温22度の暖かさであった。晩秋の穏やかな気候を小春日和と呼ぶが、こうも連日、夏顔負けの暑さが続くと、小春も日和もあったものではない。私はやむ無く、ボケの変更を決意した。「時代は年末」。当日実際の気候に左右されることが無く、万人共通の事実なのだから、確実である。安心も束の間、しかるに、予想だにしない問題が発覚した。「年末」という事実自体は12月31日に据え置かれ、動きようのない事実であるが、しかし、一体いつから12月31日を意識し始めるか、つまりは「何月何日から年末という自覚を持つのか」という点において、私が想像していた以上に、人はそれぞれ全く違った感覚で生活していたのである。

例えば「冬」という季節については、気温、空気の乾燥、日の短さ、数値による明確な指標があり、大抵の人が同じような数値に同じような感覚を抱くから、絶対的である。気温5度の日に「時代は冬ですね」と言えば、大抵の人が失笑し、そして同調する。イベントとなると、そうは行かない。年末年始、新学期等々は「何月」、クリスマス等は「何日」まで決まっており、誰にとっても平等に存在する事実だが、その事実をいつから意識し始めるか、そもそも意識するのか、しないのか、とは、あまりにも個人的な問題である。人工的なイベントであればあるほど、その兆しや余韻のグラデーションは曖昧である。私の少ない知人友人内でも「11月は年末派」「まだ秋派」で分断されている。私が「時代は年末ですよ」と言ったところで、失笑以前にポカンとされてしまうのである。

本体はあやふやでも、本体についての指標がはっきりしているか。あるいは、動かざる本体があり、だが指標が曖昧か。私のギャグは、思っていたほど万人共通に納得出来るものでは無かったのかも知れない。

 

午後、暖かな西日を浴びながら商店街を歩いていると、小学生向け学習塾のエントランスに、綺麗に電飾が巻き付けられたクリスマスツリーが飾られていた。ハロウィンが終われば、街はクリスマス一色である。

11月12日、既にクリスマスのグラデーションに突入しているのなら、やっぱり、年末って宣言したって良いじゃないか。

secret.[click].