秋は天高く、浮かぶはイワシ雲、ウロコ雲、水蒸気質の巨大な魚が、遠くにゆったり横たわり、偶然発見した人は、まるで生まれて初めて空を見上げたように、広大なる天の青さに陶酔する。
無論、実際空の高さは年中同じで、ただ雲が夏より高い位置に発生するから、高気圧が、空気の乾燥、エトセトラ、エトセトラ、科学的にごく当たり前な現象によって、「天高く」などという情緒的な表現が引き出される。ところで、「天高く」とは、秋晴れの青さだけを指すのだろうか。18時過ぎ、早めの夕食に食べたカップ麺の温もりをお腹に抱えて、街頭の点き始めた街を歩いていた。駅前の書店を目指して、南北に伸びる一本道の最中、ふと見上げると、南の天高くに、月があった。これまでに見た、どの月よりも遥か遠くに、くっきりと浮かんでいた。「秋は天高く」の先入観からか、はたまた、乾燥した空気が夜空をより奥深くまで見せているのか。素人には分かりかねるが、例え先入観だったとしても、それもひっくるめて、秋の空は昼夜関係なく情緒的であると断言したい。
6月の日記を読み返していて、興味深い一文を見つけた。
「まるで、使われない間もずっと溜めてある小学校の屋外プールである。鈍い緑、群青色の澱んだ空気に、どっぷり浸されている。」
初夏特有の、蒸し暑い空気について書かれている。随分詩的な表現である。これに倣って、秋の空気について書くなら、
「洗いたての眩しいプールに、新鮮な水がたっぷり注がれる。水底まで澄み渡り、水面はテラテラと輝いている。」
6月の空気は澱み、11月は澄んでいる。一方、実際の屋外プールは、6月に澄み渡り、11月には苔が生え始めているだろう。屋外プールの水質と空の空気質は、反比例していると言える。
書店からの帰り道、2階建ての家の窓ガラスに、月を見つけた。天高く浮かんでいるはずの月が、反射して、地上数メートルの高さに映っているのである。家のすぐ足元では、小学生くらいの少女と、その祖父らしき老人が、押し黙り、懐中電灯で地面をチラチラ照らしていた。真剣に何かを探している様子であった。
月を探している、なんて話だったら、ロマンチックである。秋の澄んだ空気に押し上げられ、天高く昇って行ってしまった月の行方を探している。私は、2階の窓ガラスを指さして、2人にこっそり教えてあげるのだ。
「探しものは、あそこじゃないですか」