歩道に、御守りの中身が落ちていた。
雲一つなくサッパリ晴れ上がった冬日和、ポイ捨てなどほとんど存在しない清潔な街の中心部に、明らかに異質な札(ふだ)が落ちていた。5.6センチ程度の、赤い布地のお札である。
幼少時代、手持ちの御守りを片っ端から開封していた私には、すぐピンと来た。これは、御守りの中に入っている、神の名前が刺繍されたお札である。「御守り開封」などという愚行に及んだ人間が、自分以外に少なくとも1人は存在するという事実に、興奮半ば呆然と立ち尽くしてしまった。
御守りの開封は御法度であり、なぜなら中には効力のある「本体」が入っているわけだから、もし汚したり傷付けたりでもしたら、御守り本来の意味が無くなってしまう。
そして、その「本体」こそが「お札」であり、幼少の私は何を勘違いしたか「本体をたくさん集めれば超強力な御身体が完成する」と思い込み、持ち合わせの各種御守りを全開封、集めたお札をお菓子の空き箱に並べ、「死んだメダカの仏壇」として毎日拝んでいた。一から十まで自分本位である。御守りの神も死んだメダカも、こんな拝まれ方は想定していなかっただろう。
私の「仏壇製作」は確かに自己満足ではあったが、よく考えてみれば果たして、仏壇とは本来そういうものではなかろうか。
そもそも、なぜ飼っていたメダカが死んだからといって、超強力な御身体と共に祭る必要があるのか。
それは「メダカに成仏してほしい」と子どもなりに考えた結果であり、方法が正しかったのかはさて置き、「成仏させる」という目的自体は明確である。
明確な目的を果たすために作り上げた仏壇に手を合わせ、そこに寸分の疑問も持たずに満足していたのだから、少なくとも私1人だけにとっては確実に「仏壇」だったわけである。
墓も同じである。
先日、ネットで「坂口安吾の墓」と調べたら、毎年命日には「安吾忌」が行われており、墓石が隠れるほど大量の花が供えられていた。
今なお、死んだ安吾が「毎年命日には花を供えて拝んでほしい」と思っているなら満足だろうが、我々には確かめようが無い。花を供えるのも「安吾忌」を行うのも、今生きている安吾のファンがやりたいからやっていることであり、もしかしたら安吾自身はとっくの昔に成仏していて、なんなら生まれ変わって のうのうと生きているかもしれない。
墓は死んだ人間の為のように見えて、生きている人間が気持ちを整理するための施設である。死んだもののために作るそれらは全て、生きている人間が生き続けるために必要だから作っている。
「死んだ人間にしてやれることは無い」とは、正にその通りかもしれない。生きている人間が何かしてやろうとして、それは自己満足他ならない。
だからと言って、自己満足のために御守りを開封するのは、いくら何でもバチ当たりである。
神は、生きても死んでもいないだろうに。