リコリスを飲み込む

渋谷に、リコリスを買いに来た。リコリスというのは、彼岸花の学名(Lycoris)じゃなく、スペインカンゾウというマメ科の植物である。こちらは英語名がリコリス(Liquorice, Licorice)であり、日本語で発音するとどちらも同じく「リコリス」だが、それぞれ全く別物の植物を指す。スペイン甘草、つまり薬草である。いかにも薬草然とした見た目の植物で、オリーブに似た葉がシダのように整列して生えている。このリコリスという薬草を煮詰めて調理したお菓子に、リコリスキャンディというのがある。これを買いに、わざわざ渋谷まで来たわけである。

映画を特集した雑誌のページの隅に、「海外の友人曰く、映画のお供にはリコリスキャンディ」という紹介文と共に、真っ黒なチューイングガムのような写真が載っていて、それを見たのはもう3ヶ月以上も前のことだったが、今日ふと思い出して、渋谷の北欧家具店までやって来た。

入ってすぐの食料品の棚に、それはあった。くすんだ紫色のビニール袋に、炭のように黒いチューイングガムが、何十個と詰め込まれている。チューイングガム、というのは見た目だけの印象で、実際に袋の上から触ってみると、グミのような弾力があって、表面が濡れているためか、袋の中でヌルヌル滑ってしまう。色も相待って、茎わかめをこねて丸めたような感じである。2袋、買った。元々持っていたコンビニのビニール袋に押し込んで、店を出た。

 

渋谷は何処もかしこも大混雑である。つい先日、事故だの火事だのがあったとは到底信じ難い盛況ぶりである。仮に、私の家が全焼したとして、それは渋谷のビルが焼けるのとは全然違う世界の出来事のように感じる。私の家が全焼すれば、私個人の苦労は相当大変なものだろうが、世間から見れば、新聞にも載らぬ些細なハプニングに過ぎない。対して、渋谷のビルが焼ければ、それがどれほど小さなボヤだったとて、速報ものの大事件である。そして、私の家の全焼は、ご近所の世間話にその後数十年登場し続けるだろうが、渋谷の火事は、誰の記憶からも数週間で忘れ去られるだろう。そう考えてみると、渋谷は酷く孤独な街に見える。

 

左手にぶら下げたビニール袋に、2袋分のリコリスキャンディの重さを感じながら、つい1時間前に出された問題について考えていた。

「本当に愛する人を或る拍子に殺害してしまったとして、どんな感情を抱きますか」

芸能事務所のオーディション面接であった。課題のセリフにおいて、私の演技があまりにも芝居臭いので、痺れを切らした審査員が、役柄ではなく、私個人の感情を問うてきたのである。「この役と同じように、本当に愛する人を或る拍子に殺害してしまったとして、あなた自身はどんな感情を抱きますか」。格好付けてもしょうがないので、私は至極率直に自分の感情を伝えたのだが、どうやら全く想定外の回答だったらしく、審査員はあからさまに動揺して、「サイコパスに思える」「厨二病的思考だ」等々、散々失礼な見解を述べた後に、小さく、「演技以前の問題だ」と溢した。私も、流石に良い気はしなかったので、ほとんど喧嘩腰の言い合いをして、最後は逃げるように出て来てしまった。しかし、何度検証してみても先の自分の回答に嘘偽りはなく、かと言って、大の大人が面接から逃げ出して、その足でリコリスキャンディを2袋も買っているという現状は、厨二病だと認定されても仕方がないようにも思える。あのオーディションは、落ちただろう。

 

家に帰って、早速リコリスキャンディの袋を開けた。瞬間、目が沁みるような強烈な薬草の匂いが立ち込め、私はすぐに、今日の全部が失敗であったと分かった。やけくそで、1粒引きずり出し、口に放り込むと、グチャ、とひと噛み、口の中いっぱいに、ハーブのような、パクチーのような、プロポリスのような、これまでの人生で食べてきた全ての薬草を煮詰めたような過激な香りが広がって、即座にティッシュを1枚、奪い取るように箱から抜き取って、そこに一切を吐き出した。ティッシュには、およそ食べ物とは思えない、粘性ある暗黒物質が散らばっていて、私は気が遠くなる思いがした。これを口の中でクチャクチャやりながら映画を観るような人間とは、到底分かり合えないと思った。机の上には、今もなお、開封済みのと未開封のと、2袋のリコリスキャンディが残っている。少しだけ、泣いた。世界中の誰とも分かり合えないような気さえした。

「本当に愛する人を或る拍子に殺害してしまったとして、どんな感情を抱きますか」

「私は、愛する人の、まだ体温の残る生ぬるい身体を抱き寄せて、己の耐え難いほどの幸福に打ちひしがれるでしょう。愛する人が最期に見た光景が私であった、という事実に。愛する人が数十年の歳月をかけて積み上げてきた生活の軌跡を、私という拙い人間がこの手で断ち切ったのだ、という現実に。私は、あまりの興奮と感動に打ちひしがれて、その幸福を噛み締めながら、愛する人と共に眠るでしょう。恋愛において、それ以上に幸福な終わりがあるとは、私には到底思えないのです」

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