通院記

芝生の広がる広い公園を突っ切って横断歩道を渡ると、幅の狭い川が横たわっており、30メートルほどの短い橋が掛かっている。ほんの数キロ先が海へ繋がっているからか、足元からは潮の生臭い匂いが立ち昇り、欄干には「この橋からの釣り禁止」と書かれたプレートが貼り付けられている。息の詰まる思いで橋を渡り切ると、目の前に現れるのが、城のように巨大なレンガ色の建物である。外壁に沿ってぐるっと半周分歩いて、するとようやく敷地内に入れる開けた場所に出て、私は建物へと続くスロープを歩きながら、背負っていたショルダーバッグを手前にずらして、内ポケットから不織布マスクを取り出し装着した。自動扉を抜けると、建物内は想像していたより冷房が効いていて、マスクの中で思わず安堵の息が漏れた。10月目前とは言え、まだ夏の日射しが残る暑さの中、駅からここまで15分以上歩いて来て、汗だくとは言わないまでも、上気した顔をさらにマスクで蒸しあげるのは御免である。外来受付が始まり混雑するロビーの最奥、壁沿いに並べられた機械に診察券を差し込むと、まもなく出てきた受付票には、1番上に「血液検査」と書かれている。この病院に通院患者として来るのはまだ2回目だが、私は今後、来る度に毎回血を抜かれるのだろうか。前回も血を抜かれた(普通の採血のほか、無菌採血なる特別らしい採血までやった)が異常はなく、どうしても、やったところで意味がないのでは、という気がしてならない。

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今年に入ってから8月までの間、38度以上の高熱を計5回出す、という常軌を逸した不健康状態に陥っており、3回目までは「人は年に何回かは寝込むから大丈夫」「インフルエンザ、コロナ、風邪、これだけでも3回倒れるのだから異常性は無い」などと優雅に仰っていた医者も、さすがに4回目には「流行り病とは別のウイルスかも」と眉をひそめ、5回目ともなると「何かしらの原因があるはずだ」と訴え始めた。無論、高熱を出す度にあらゆる検査にかけられるものの、ひと通り異常なし、という結果で、私はもちろん、医者までもが頭を抱える有り様で、結局は、熱が出なくとも毎月通院しましょう、という約束で落ち着いた次第である。一見進展があったようにも見えるが、「通院」なる新たな習慣を獲得したというだけであって、実際には高熱の原因はおろか、治療の目処すら立っていない。

1階で採血を済ませ、左腕を押さえながらエスカレーターで上階の診察受付を目指す。受付票を提出して、待ち合いのソファに腰掛け、待ち続けること1時間半、ようやく呼ばれて診察室の引き戸を開けると、前回通院の約束をした医師が座っていた。体育教師のようなハツラツさのある、小柄な女性である。私が椅子に腰掛けると、開口一番に「前回から今日までの間、熱は出ましたか」

「高熱は出ませんでした。一昨日と9月の初めに、微熱だけ」

医師がカルテに打ち込む。

「他には」

「特に何も」

デスクに置かれたプリンターが音を立ててA4サイズの紙を2枚吐き出す。

「今日の血液検査ですが、前回に引き続き異常ありません」

2枚の紙を広げて、上から順番に、これはこう、これはこう、と項目の説明をしてくださる。

「前回のレントゲンもCTも異常はないので、今後やるとしたら、遺伝子検査か、心臓か……」

医師は紙の余白にボールペンでサラサラと書き込んでいく。やるとしたら、の検査が2、3個。しかしやったとしても、病名は確定出来ない。また、使ってみるとしたら、の薬が1つ。飲んでみて、熱が出なくなったら「効いた」ということで、しかしこれだけで病名を断定するのは難しい。

「現時点では、この薬を試してみるくらいですね。でも副作用もあるので」

「怖い副作用なんですか」

「下痢」

私は前歯の後ろまで出かかった「博打ですか」という言葉をすんでのところで苦笑いに昇華した。まるで、コインの裏と表である。病気か、さもなくば健康か。私はあと何回、この聡明な医師の手のひらの上で弾かれるのだろうか。私が不気味にニヤニヤ笑っていたからか、医師は軽く咳払いをして、「まだ2回目ですし、もう少し経過観察しましょう」とはにかんだ。

 

会計を済ませて病院を出ると、まだ真昼間の時間帯で、駅へと続く道は、これから出掛けるのだろう家族連れや若者たちで賑わっている。私も人の流れに加わって、歩きながらマスクを外した。私はあと何回、この道を歩くのだろうか。病気か、健康か、裏付ける材料を何ひとつ持たない身体を引きずり、引きずり、冬なんかは、特に虚しいだろうな。あの海臭い橋はなるべく渡りたくないが、駅と病院との間に川が横切っているのだから、仕方ない。向こうから歩いて来る人は、全員、あの病院を目指しているのだろうか。病人か、見舞いの人か。看取る人か、看取られる人か、いや、肉体の健康状態にフォーカスしているからと言って、健康の対極に死を置こうとするのは余りにも安易だ、第一、見舞いの人だって、次の瞬間事故に合わないとも限らないのだから……。

アゲハチョウが、夏の残り香のように飛んでいる。

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