米を炊く、飯を食う

驚くなかれ、米袋が積まれている。背丈まである高さの棚、その全部の段にきっちり上まで積まれている。昨今の米の流通不足には目を見張るものがあった。どの店を覗いても米袋の姿だけが無く、あるのはレンジで温めればすぐに食べられるレトルトのご飯だけで、店によっては、レトルトはおろか、米を置くための商品棚そのものが見当たらなかったりして、店中を何周も歩き回ったのち、準備中かと思って無視していた空っぽの棚が、まさしく米の棚であったりした。引っ越しの際に実家から、文字通り抱きかかえて持ってきた3合炊きの土鍋は、まだ数回しか使われていないにも関わらず、台所の隅でオブジェと化して佇んでいる。8月の終わりのことである。

私は生まれてこのかた、米を食べなければ生きていけない、などとは一瞬たりとも思ったことが無く、主食を選べる機会があれば、迷わずパンか麺を選び取るくらいには米に飽き飽きしていたのだが、米、という選択肢そのものが消失してみると、あまりの事の重大さに愕然とした。20年以上、米によって満足させてきた腹を、他の代替物で満たすのは困難ある。米文化のない外国では、あの、ほとんど空気のようなパンだけで、本当に満足できているのだろうか。最初の頃は折角だからと、私もサンドイッチやパニーニなど食べたり、大量に余らせているそうめんを茹でてみたりしたものの、1週間と経たずうちに限界が来て、レトルトのご飯を買い込むようになった。これがまた、大変割高な買い物で、ジリジリと上がりゆく食費に震えながらの生活である。

今日、9月16日の昼下がり、最寄りのスーパーに入ってカゴを抱え、水と、食材と、レトルトのご飯と、と手を伸ばしかけた、その向こう側、まるで当たり前のように大量の米袋が積まれていて、私は手を宙に浮かせたままの格好で呆然と立ち尽くした。いつ入荷したのか。昨日までは、確かに無かったはずではないか。恐る恐る近づいてみると、上から2キロ、5キロ、10キロ、十二分な品揃えである。やはり価格は高騰しており、通常時よりプラス1000円以上の値札が貼られている。普段は5キロを購入するのだが、仕方なく、2キロの米袋を手に取った。実に1ヶ月振りの重みが右腕にのし掛かる。日本人は何故こんなにも重い買い物をして、毎日、洗って、炊いて、よく飽きもせず同じものを食べ続けるものだと疑問だったが、初めて合点がいった。コストパフォーマンスが抜群なのである。この2キロを持ち帰れば、1日2食食べたとしても半月は持つ。レジの店員に「米が入荷しましたね」と笑いかけそうになるのを懸命に堪えて、はち切れそうなほどパンパンに詰まったエコバッグを背負ってスーパーを出た。私はこれから、生まれて初めて、惰性じゃなく、自ら進んで米を持ち帰り、土鍋で炊き、食べるのだ。米の必要性を、自身の経験という確かな裏付けを持って発見した。私は今日、ようやく「米文化の日本人」に至ったのかも知れない。

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