銀杏読書人

上野駅中央口を出ると、空はすっかり夕方の面持ちで、駅前の歩道は、夜の気配に浮き足立つ人々で大変な混雑具合である。スウェットの袖を捲り、腕時計を見ると、16:30、約束の時間までは30分以上の余裕があった。真昼間なら、例えばアメ横通りをぶらつくとか、もしくは、駅の直ぐ目の前にヤマシロヤという5階建ての玩具屋があるのだが、それを上から下まで見物して周るだとか、いっそのこと駅から離れずに、近くの喫茶店かどこかで時間を潰してしまうとか、色々思い付きはするものの、しかし今日の私は、ここに辿り着くまでに乗ってきた山手線の観光地然とした賑わいに、ほとほと疲れ果てていて、今から更に夜の上野の乱痴気騒ぎを相手に出来るとは、到底思えなかった。一刻も早く、駅前の喧騒から脱出したい。足は自然と、木々が立ち並ぶ方へと向かっていた。無論、上野公園である。

 

動物園があったり博物館があったり、馬鹿にデカいクジラのオブジェがあったり、神社、美術館、西郷隆盛、他、立派な施設が点在しているが、全部が木々に隠れて散らばっているために、上野公園は観光地というより、単にだだっ広い木立である。一見すると、何も無い。何も無い木立を歩いて感動する趣味が無いために、これまでほとんど無視して通り過ぎてきたのだが、今日は違う。ここで30分の時間を潰すという明確な用事があり、だがそれ以前に、刮目せざるを得ない事態に直面した。銀杏臭くて敵わないのである。

立ち並ぶ木という木が全部銀杏であるかのように思われる。銀杏を好きとも嫌いとも思ったことは無いが、これだけ多量の銀杏臭を吸い込んでしまえば、胃に穴が空きそうな感じがする。私は引き攣った顔を悟られぬよう、斜め下を睨みつけながら足早に歩いて、時たますれ違う人々の顔を横目で盗み見てみるが、しかし、皆一様に平常心、連れと笑顔で会話しているか、中にはベンチでくつろぎ、読書している人なんかもあったりして、どういう訳だか、私だけが銀杏の妖気に当てられているらしかった。私は、つい数分前に駅前の喧騒から逃げ出した時とまるで同じ格好で、中央の広場を目指し足早に歩いた。

 

噴水がある。高さ5メートル近く噴き上がっている。流石に、銀杏の木立よりは人が多く集まっている様子である。噴水を中心に輪を描く低いベンチには、家族や恋人同士のほか、1人で座る人もちらほら居て、私も空いている場所に腰掛けて、ようやくひとつ深呼吸した。駅前から逃げ、銀杏から逃げ、やっとまともな安息地に辿り着いた。

噴水は、中央の最も高い水柱と、その周りに少し低い水柱が何本もあって、それぞれが最大限に噴き上がれば、きちんと「山」の形になるよう設計されている。何の変哲もない水がただ噴き上がっているだけなのだが、それだけで広場の中心として君臨し、自然と人が集まるというのは、面白い現象である。小学校の国語の教科書に、海外の噴水と日本の噴水のニュアンスの違いについて書かれた随筆が載っていた気がするが、果たして誰の著書だったか。海外の数十メートルの高さを誇る噴水は人々を圧巻する芸術であるが、比べて、日本の噴水は低くてショボくて、所詮は海外の真似事に過ぎない、というような批評だったが、実際に対面してみれば、ただ大きいだけの木が神秘性を持つのと同じで、それ自体の高さ大きさに関係無く、水が噴き上がっていたら大抵の人間は集まり、憩い、満足出来そうなものに思われる。5メートルの噴水を見ながら、嗚呼50メートルの噴水と比べたら心許ない、などとは思わないだろう。大量の水が噴き上がっていれば、それだけで納得しかねないのが人の性である。

 

結局、20分近くを噴水の元で過ごし、私はまた覚悟を決めて、銀杏の木立へと踏み入った。待ち合わせは、駅前のレストランである。むせ返るような銀杏臭を掻き分けながら、路肩のベンチに、行きに見かけた読書の人がまだ座り込んでいるのを見つけて、思わず白目を剥きそうになった。

例えば30坪ほどの小さな公園なら、偶然居合わせた全員が一緒に遊ぶこともあるかも知れないが、この銀杏読書の人と、あっちの噴水広場の人たちとは、もしかしたら永遠に分かり合えないのではないかしら。都会は、広くて敵わない。私は、ベンチの銀杏読書人を見捨てるような気持ちで通り過ぎた。待ち合わせまでは、もう10分を切っていた。時に噴水広場人は、夜の駅前喧騒人に会いに行かなくてはならないのである。

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