省察日記

人生の先輩に、「天気の暑い寒いを引きこもりの原因にしてはならぬ」と教わったのだが、昨今の東京は、およそ暑い寒いの範疇に収まらない、並々ならぬ厳しさがあるようで、少なくとも私個人の見解では、日中に外で活動するのは不可能だと考える。しかし、ここ数日の私の年齢に似合わぬ隠居具合には目に余るものがある、というのも、また自覚すべき事実に違いないので、今日、私は財布と携帯だけを持って、遂に玄関を開け放った。いつもの事ながら、夜である。起床が15時近いので仕方がない。駅前でバスに乗り込み、繁華街の明かりの中を揺られて、ショッピングモールまでやって来た。20時過ぎ、ほとんどの店舗が営業を終えている中、唯一明かりの点いている映画館でレイトショーのチケットを購入し、その足でシアターへと直行して、映画を観終える頃には、時刻は22時半を回っていた。

夜中である。数少ない客たちと共にシアターから追い出されて、ふと、トイレへ立ち寄った。用を済ませて個室から出ると、誰もいない。振り返ってみると、整然と並ぶ個室のドアは全て開いており、私が流した水の音だけがサラサラ響いている。夜、映画館、誰もいない女子トイレ。洗面台で手を洗って、顔を上げると、鏡に私の顔が映った。目の覚めるような真紅の壁面を背景に、化粧すらしていない、とぼけた私が立っている。部屋に閉じこもっている時と、何ら変わらない格好である。自室のフローリングで寝転んでいたところを突然攫われて来たような、素っ頓狂な顔をしている。遠くから、まだ上映中なのだろう映画の爆撃音が微かに聴こえてきて、それも相まって、夜、映画館、誰もいない女子トイレ、独り。酷く異質な光景であった。ここに居るはずのない私が、何故だかこの場に立っている。白昼夢のような強烈な離人感に、視界が遠ざかっていくような感覚に陥った。早急に、家に帰るべきだろう。

恐らく、時間を間違えたのだ。先の先輩は、私に「文明ある社会で生きる人間なら、天気に構わず己の予定を遂行せよ」と説教したのであって、何時でも良い、なりふり構わずとにかく外出しろ、などという乱暴な意味合いでは無いのである。社会の中で生活をする、その延長として外出せよ、という事であって、夜中の映画館のトイレで白昼夢に酔っている場合では無い。明日、もう一度、今度は昼間に出掛けよう。今日のうちに予定を立てて、そう、やはり、予定は前日までに決定させるべきである。それを着実に遂行していくことが生活であり、私がすべき最初の、最低限の課題であると思われる。

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