図書館パスポート

その図書館は、駅前の目抜通りと垂直に交わる長い一本道の先にあった。郊外の住宅街特有の、人通りが少ないにも関わらず無駄に幅の広く取られた道路の、両側には古い一軒家の塀が灰色の壁のようにどこまでも連なっている。人がいない。果てしなくみえるこの一本道に入ってから、私はまだ誰一人ともすれ違っていない。顔を上げると、正面の遥か遠くに黒々した山並みが横たわっている。いくら歩いても山並みは依然遠くにあって一向に進んでいる気がしないので、私はスマホの画面を点けっぱなしにして、Googleマップを何度も確認しながら歩いた。昼間に来て良かったと思った。知らない土地の誰もいない一本道など、夜中に迷い込んだら最後、発狂してしまうだろう。20分ほどひたすら真っ直ぐ歩き続けて、ようやくマップ上で目印にしていたコンビニが見えた。おにぎりを1個と、昨日から野菜を食べていないことに気付いて、パックの野菜ジュースを1本買った。図書館は、コンビニを出てすぐの場所にあった。

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木造の立派な建物である。最近できたばかりなのか、外壁も窓ガラスもすこぶる綺麗で、三角形の屋根も相まって、軽井沢の洒落た教会のようである。地元の暗いコンクリート箱のような図書館しか知らないので、若干のカルチャーショックを感じながら入館した。館内図によると、2階のロビーでなら飲食可能、とある。先に昼食がてらおにぎりを食べて、それから書架を見て回ろうか、と、館内図相手にウンウン考え込んでいると、貸し出しカウンターの女性がチラチラこちらを伺う視線を感じたので、私はそそくさと階段を上った。地元の人間しか来ないだろう施設で、入って早々館内図を凝視する私は、異質に見えるのかもしれない。2階に上がると、てっきり賑わっているかに思われたロビーには、誰の姿も無かった。椅子を2つ陣取って、コンビニの袋からおにぎりを取り出し、食べ終えて野菜ジュースを啜り始めても、依然人が来る気配がないので、今日はもう、ここにずっと居座って本を読んでいようか、とも考えたが、目の前の天井に防犯カメラがあったのでやめた。椅子には「長居厳禁」と貼り紙がある。

2階まで吹き抜けのメインホールには、背丈ほどの書架が整然と並んでいる。日本中どこの図書館も置いてある本は大体同じようなラインナップだろうが、しかし、ここでは私は「まだ1冊の本も借りたことのない他所の人間」である。いくら「地元の図書館では綾辻行人を全部読破しました」と主張しても、通用しない。異国民である。自国でいくら財を成しても、遥か異国の地では、正体の知れない只の外人である。私は異国の地を、ゆっくりと見物して回った。書架の間を抜けると、6畳ほどがガラスで囲われた学習室があった。中には、背もたれのある椅子と1人分の机のセットが何個も並んでいる。ここで読書するのが理想だが、ガラス戸には案の定「申込制」と貼り紙がされていた。私は他所の人間なので、図書館利用券が作れない、そして、図書館利用券を持たざる者は、学習室には申し込めない。図書館において、利用券とはパスポートである。異国民は引き返し、書架の間や窓際に置いてある野良のベンチの空きを探した。不法滞在者とは、こんな気分なのだろうか。なるべく集中出来そうな閉鎖的なベンチを探して、ようやく、館内の角につけて置かれたベンチに腰掛けた。角の壁に寄っかかって足を伸ばし、ジャンパーのポケットから文庫本を取り出す。図書館利用券が作れないこと、つまりは本を借りられないことを見越して、読む本は自宅から持参しておいた。異国の図書館巡りの目的は本を借りることではなく、「異国の図書館で読書すること」それ自体である。

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200ページほど読んだところで、ふと顔を上げると、窓の外がほんのり暗くなり始めていた。文庫本に栞を挟んでジャンパーに突っ込み、立ち上がる。外ではちょうど5時のチャイムが鳴り響いている。書架の間を通って出入り口を目指す途中、少しの期待が頭を掠めた。ここの図書館利用券を、うっかり作れたりはしないだろうか。200ページ分の居心地が、思いの外良かったのである。是非またここに来て、今度はあの学習室に1日篭って本を読み漁ってみたい。私は貸し出しカウンターの前で立ち止まって、本の分別作業をしている女性の背中に、小声で「あの」と声掛けた。ここには私を知る人間は1人もいないのだ、という孤独が、私の気を大きくさせていた。女性は驚いた顔でこちらを振り返った。私が館内図を凝視していた時にもカウンターに居た女性だった。「私、この街に住んでるわけじゃないんですが、利用券、作れたりしませんよね」。女性は掠れた声で「ああ」と言って、気まずそうに笑った。私は直ぐに「ですよね」と笑って、はい、すみません、なんて図々しいお願いを、いつか越してきますので、はい、そうしたら是非、利用券を、はい、作らせてくださいね、ええ、それでは。

パスポートはもらえなかった。

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