青春の亡霊

JR総武線を千葉方面に走っていると、御茶ノ水駅を出たところで、川の向こうにビリヤード場が見える。20時ごろ、最近知り合った歳の近い友人と2人、並んで吊り革を握り、真っ暗の車窓に映る自分たちと、その向こうに流れる都会の明かりとをぼんやり眺めていたら、御茶ノ水を発車したところで、そのビリヤード場が見えた。ちょうど他に街灯は無く、暗闇にビリヤード場の白い蛍光灯だけが煌々と浮かび上がり、数十メートル離れたこちらからでも、店内のビリヤード台とキュー・スティックがはっきり見えたので、私は、ほんの世間話のつもりで、「ビリヤードって、面白いんでしょうかねえ」と呟いた。友人は驚愕の面持ちで、「面白いです。やったこと無いんですか」。曰く、学生時代、都内で夜通し遊ぶには、カラオケか、ダーツバーか、ビリヤードの3択であったと言う。

私は、3つの内ではカラオケしかやった事がない、そもそも、夜通し街で遊ぶようなことが無かった、と伝えると、友人は異星人を見るような顔をして、私も、その異様なリアクションに困惑してしまって、2人揃って唖然とした状態のまま、私たちはまた、車窓の暗闇を見つめた。変な沈黙である。なんとか絞り出し、「青春ですね」と声掛けると、友人は、「はい。今はもう、あんな遊び方は出来ないです」と言う。私は23、友人は24歳である。車内には、既に秋葉原駅到着のアナウンスが鳴り始めていた。

都内、もしくは近郊で生活する彼らにとって、街で夜を明かす、という冒険は、到底冒険と呼べるようなものではなく、それこそ、「青春の1ページ」に過ぎないようである。私が都内じゃなく、都内に近い千葉に住んでいるから、こういう感覚の齟齬が生まれるのかしら、とも考えたが、思い出してみれば、同市に住む(本人曰く、森を抜けた先に住んでいる)同級生も、都内の大学に通う間、バイト仲間とカラオケでオール、ダーツバーでなんちゃら、つい先日にはゴールデン街で夜通し飲み歩いた、などと言っていたので、どうやら居住地域に関係なく、都内に用事のある若者は皆、そうやって遊び歩くのが定石らしい。私は、どれも未体験で、しかし、だから今から是非一緒に、と誰かを誘うにしては、ビリヤードの友人が言う通り、年齢的にも、あるいは生活習慣的にも難しい。私が、これからビリヤード場で夜通し遊ぶとしたら、それは同年代の友人たちとではなく、歳下の後輩たちと、ということになるのだろうか。青春を失って切ない、というのはよく聴くが、知らない青春の種明かしをされて切ない、というのは、不意を突かれた孤独がある。

とは言え、今さら取り返せもしないのに、無かったことを「無かった」と泣き喚くのは、滑稽である。一般的な青春のアイコンとして、ビリヤードやダーツやゴールデン街を知れただけでも、幸運と言えよう。どうせなら今後、それらを成し遂げていない限り、私は堂々胸を張って、「まだ青春、真っ只中です」とさえ宣言できる。無かったのではなく、「今はまだ」無い。青春を失った彼らよりも、ずっと長く、この青春の亡霊を啜り味わいながら生きていこうか。

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