局所的満足感

かねてより愛飲しているモンスターエナジードリンクが、昨今の物価高の影響により、先月ついに1缶205円から230円という30円近い値上げを決行したので、私はコンビニの清涼飲料コーナーで危うく悲鳴を上げかけた。値上げ、それ自体はそれなり話題になっていたし、私もネット記事のタイトルだけは見かけ、そりゃあこのご時世に多少の値上げは仕方がないでしょう、と大した興味もなく静観していたのであるが、いざ商品を手に取るぞという瞬間に、1缶230円。差し出したままの形で宙に浮かぶ右手を横へスライドさせ、その日私が取り上げたのは、1缶205円、値上げ前のモンスターエナジーと同じ値段のレッドブルの缶であった。

つまり30円得した形になるわけだが、帰宅した私がレッドブルを飲み下して感じたのは、ジメジメとした悲壮感である。店頭では値札だけを凝視していたから気にも留めなかったが、レッドブルはモンスターエナジーよりも内容量が100ml少ない。単純に、1ml単価が高級である。そして、モンスターエナジーを飲みなれてしまった私には、レッドブルは些かサッパリした味に感ぜられた。物足りないのである。小銭入れから230円出すか205円出すか、という局所的な天秤ではかった結果、肝心の味は満足出来ず、実際に得られた高揚感は、30円得した、という些細な事実それだけであった。余りにも一時的、局所的な高揚感であり、これこそ正しくドラッグと同じではないか、と我に返って、それ以降は大人しく230円のモンスターエナジーを買うことにしている。

 

私は、自分が思っている以上に些細な、一時的な差異によって、物事を選択しているようである。先日、友人とマクドナルドへ入って、私はコカコーラゼロを、友人は普通のコカコーラを注文したら、トレイに載って出て来たのは全く同じ見た目のカップ2杯であった。蓋を開けてみても、コーラゼロとコーラでは同じ茶色の炭酸である。すると友人が「自分は飲めば両者を見分けられる」と言い出すので、カップを差し出し、一口ずつ飲んでもらったら、こっちがコーラゼロで、こっちがコーラだと断言した。私も折角なら、と一口ずつ飲み下せば、なるほど、並べて飲み比べないと気付かないが、コーラゼロは普通のコーラよりも甘味が少なく、その代わり炭酸が強い気がする。後味も、何か、明確な成分は不明だが、何かしらの風味が欠けているような気も、しなくはない。

私は、同じ値段なら0キロカロリーを、という天秤でコーラゼロを選択したのだが、両方を味わってみると、私は0キロカロリーという、実際どの程度身体に影響を及ぼすか微妙な満足感のために、コーラの甘みだか何か、ふんわりした微妙な風味を無意識に放棄していたことを知り、0キロカロリーか風味か、こういう微妙な満足感を差別化していくことこそが商品戦略であるという事実を発見して、マクドナルドのソファに埋もれ感服した。

 

私は自分を、物事を冷静に客観視している方だと思い込んでいたのだが、全然、そんなことは無かったのである。その場、その瞬間の状況、雰囲気、印象、そういう微妙な、数値にさえならない曖昧な主観によって、私は物事を認識している。1000円の商品より999円の商品を迷わず手に取り、レジで1円の釣り銭を貰う。それが、その場その瞬間での最善の選択であり、例え限りなく局所的であったとしても、満足感を得たという事実に変わりはないのである。

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