他人の不思議は世の不思議

他人の不思議は世の不思議、とは常々言われることですが、いえ、実はついさっき思い付いた私自身の言葉なのですが、あまりに自然と口をついて出たために、これはきっと、いつか読んだ小説の一文か何かだろうと思い込み、しかし、いざネットやら辞書やらを調べてみても、他人と世と不思議、この3つが並ぶ台詞はどこにも見当たらず、恐ろしいかな、どうやら私は、他人の不思議は世の不思議、などという、幼稚な格言の生みの親らしいと分かって、にわかに身体が震えました。

ただでさえ言葉選びがキザな上に、格言が格言たるまでの経緯が余りにも情けない話なので、どうしても愚痴っぽくなってしまうのですが、簡潔に申しますと、仕事の面接に失敗した、というのが、先の格言が生まれるキッカケとなった事象の全てなのでございます。

 

面接の失敗、それだけなら、就活シーズンを経た世の中にはわんさか溢れ返っているエピソードだと思われますが、今回私が経験したのは、その数多の面接の中でも最も凶悪な、悪質なやり口の面接でした。その会社の会議室に通されると、4帖程度の狭い部屋に押し込まれた大きなデスク、その一辺の席に3人の男性社員が仏頂面で座っており、私はその対面に1人で座りました。だだっ広いデスクを挟んで3対1、さながらボードゲームでも始まりそうな緊張感でしたが、私はとにかく仕事に困っている現状だし、強張る身体をなんとか奮い立たせて、マスクからはみ出るくらい、これでもかと口角を引き上げて、声色明るく、歯切れ良く喋り、すると、3人の対戦相手にもだんだん笑みが溢れるようになってきて、加えて、私が提出した写真満載のポートフォリオも好評、遂には「頼もしい」「入社してくれたら助かる」なんて台詞も飛び出し、質疑応答の時間になる頃には、具体的な仕事の手順から社内の雰囲気まで、まるでもう入社が確定事項かのように、社内の事情を隅から隅まで教えてくださりました。帰り際には、壁に貼ってある社内サークルの活動誌まで紹介され、入社したら私の直属の上司になるという男性は「慣れてきたら、こういうのにも参加できます」と仰った。帰りはエントランスまで送っていただき、さあ、そこでいよいよ、この台詞である。「採用、不採用のご連絡は1週間以内にメールでお送りします」。そしてこの後、約束の1週間が経っても、採用のメールが届くことは無かった。

 

私の混乱ぶりは見るに耐えないものであった。何せ、あれだけ一から十まで感触の良い面接は初めてだったから、ますます、訳がわからない。私の不採用は、どこで決定されたのか。質疑応答で、何かまずい事を口走っただろうか。面接官たちから溢れたあの笑みは、笑みじゃなく、嘲笑だったのか。まさか、私があの狭い会議室に足を踏み入れ、緊張感、などと思った時点で、とっくに不採用の決定が下されていたのだろうか。それなら、救いようが無い。せめてもの慈悲で、気分の良い面接体験にしてあげましょう、という、面接官たちの配慮だったのかも知れぬ。残酷、極まりないではないか。

約束の7日目が明けて、8日目の昼。私は、貯金の口座から万札を下ろし、ショッピングモールまでトボトボ歩いて、フードコートで高いサンドウィッチとLサイズのポテトを食べた。書店に寄って、文庫本の棚にへばりつき、好きな作家の本が全然無いことに愕然として、普段なら絶対見向きもしないだろうジャンルの背表紙を舐めるように物色して、哲学書を2冊、「自省録」と「死に至る病」を掴んで、レジに持ち込んだ。家に帰り、デスクライトの元、「自省録」を捲ると、1行目に「清廉と温和」とあって、そこでもう全部が嫌になって、閉じた。机に本を放って、他人の不思議は世の不思議、まるで唐突に、無意識に、かの格言が口をついて出たわけである。

 

他人の不思議は、イコール、世の中の不思議である。他人の不可解な心情、感性、考え方は、私には到底理解出来ないものであり、他人の集合体である世の中もすなわち、自分には到底理解出来ない。あの和やかな面接が不採用であるなら、世の中に溢れる平和な風景も、もはや本当の平和かどうか、怪しくなって来る。また、私が時折感じる、世の中と自分との微妙なズレ、違和感、それらを分解し、砕いた小さな破片のひとつが、今回の面接のような事象なのだと思われる。他人の不思議は世の不思議。私は、自分が世の中と分かり合える日が来るとは、到底思えないのである。

 

そして、この面接の一連の事象は、実に悪質な、恐ろしい結末で幕を閉じる。面接から10日目の夜。スマホを開くと、メールが1通、届いていた。送信者は、あの会社である。震える指でメールを開くと、そこには、人事部担当者の名前、私の名前、そして、最後に、一文、是非一緒に働きたいと思います、と、そう書かれていた。