私はなんだか、歳の割に随分子供っぽい髪型をしている。自分に近しい雰囲気をインスタグラムで探そうとして、行き着いたのは「ボブ」とか「マッシュ」だとか呼ばれる髪型だったが、実際、鏡を挟んで対面した私は、身も蓋もない言い方をすれば、「キノコ」「こけし」が的確である。「キノコ」が具体的にどういう進化、あるいは修正をすれば「マッシュ」になり得るのか、美容師国家資格を持たない私には皆目検討も付かないが、一応、「マッシュ」と書かれた写真を何枚か保存して、それを横目で確認しながら、文房具鋏の刃を後ろ髪に差し込んだ。
ちょうど1年になるだろうか、私はずっと、文房具鋏1本で、自力で散髪し続けている。私が、会う人会う人に高校生、場合によっては中学生とすら思われる理由の半分は、ここにあるのではないかと考えている。私は来年、歳女である。事実、成人女性である。
若々しい、は褒め言葉であるが、子供っぽい、とは、確信犯である。具体的に、「若々しいですね」と言う本人は、自分と相手が同世代であるという認識の上で、「しかし、あなたは若々しく、羨ましい」だが、「子供っぽい」とは、例え相手と同世代だったとて、自分は相手よりも落ち着いている、冷静である、余裕がある、賢い、等々、含みあっての「子供っぽい」である。私は、出来れば「若々しい若者」でありたい。
若者の良いところ、ひとつ、自分の全部で体当たりする。自分という存在、プライド、肉体、その全部を、一瞬の感激に投げ出せてしまう乱暴さ、大胆さ、愚かさ、純粋さ。これは子供に無くて、若者だけが持つ才能である。子供はまだ、保護者や先生という絶対的な神を持っている。神から逃亡し、まるで自分の全てを自分1人が握っていると、心から信じ込めるのが、若者である。自身について自覚的で無い者は、若者の間ですら「子供っぽい」と揶揄われるだろう。私は若者の友人が少ないから、実際のところは知らないけれど。
そういう若者でありたいものである。若者の「若々しい」とは、すなわち無敵である。少なくとも20代前半のうちは、そういう勘違いが許されると思っている。いや、許す。自分の許す許さないを言い切ってしまえるのも、若々しい若者だろう。
つまりは、「子供っぽい」から脱却したい。私は、若々しい若者になるのだ。渋谷の一等地に立つヘアサロンに予約した。注文は勿論、「無敵の若者」である。