5月16日(偏頭痛と殺意)

朝から風がゴウゴウと吹き回す音が響いている。

昨日は「本屋に行きたい、あわよくばマックでポテトも食らいたい」と心に決めて寝たので、天気など構わず出掛けるつもりだったのだけど、起き上がった途端、視界がキラキラ輝いている。立派な偏頭痛の前触れであり、薬を飲もうが水を飲もうが、あっという間に頭痛最高潮に達してしまった。

のたうち回り喚き散らしながら、「夕方には必ず本屋まで這って行ってやる」と壁を蹴り上げる。ここ何日かの趣味は読書であり、部屋にはもう未読の本が無い。

 

 

近所の本屋を一軒一軒念入りに物色し、好きな作家の面白そうな題は無かったから、仕方ない諦めて帰ろうとしたのだけど、ふと「作者ヒ」の列に「虚な十字架」の背表紙を見つけた。東野圭吾の小説である。

 

中学3年生の頃、私立を辞め、公立に転入してきて直ぐに相談室登校を決め込む私に、担任が勧めてきた本であった。この本の前にも何冊か、「世界の中心で、愛を叫ぶ」だとか当たり障りのないメジャータイトルを渡してきては、「暇つぶしに読んでよ」なんて言う変わった教師だった。

毎回さっさと返しては「普通だった」などとほざいていたら、ある日、当時の東野圭吾の新作「虚な十字架」を渡してきた。

「まだ読んで無いけど、先に読んでいいよ」と言われ、若干引きながらも あらすじ を読めば、どうやら娘を殺された親の話のようで、「娘が殺された系は『殺人の門(同作者)』でお腹いっぱいだから嫌だ」と突き返した。

 

子供を殺された親の話は息が詰まりすぎる、自分も子供を産んだらこうなるのだろうか、先生は如何ですか。こんな風に聞いた気がする。先生には成人済みの独り娘が居る。先生は、何と答えたのだったか。ただ、「間違いなく犯人を殺す」と、何でもないことのように、しかしハッキリと私に伝えた。

 

外では変わらず強い風が吹き回っている。先生と話した日も、嵐だったような気がして来る。

先生はもう、私の顔を覚えてはいないだろう。ほんの十数回、話をして本を貸して、"少し手のかかる生徒" くらいだったはずである。

しかし私は、他人の持つ確実な殺意を、それを躊躇なく行動に変えうる人間が別段珍しくは無いことを、あの日確かに知ったのである。

 

「虚な十字架」は、未だ手に取れないままでいる。

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