日記をしたためる

日記をつける習慣がない。特に学生時代は「学習習慣の一つとして」取り入れようとしたり、無理やりさせられたこともあるにはあったが、例えば夏休みに課せられる「一日一行」の日記でさえ、日ごと埋められず、前回書いてから数日放っておいて、ようやくハッと思い出し、慌てて記憶をひねり出す有様であった。中学生にもなると、大型文具店に並ぶ豪華な手帳やらノートやらに惹かれ、「毎晩日記をしたためる粋な若者になろう」と決意してみても、商品を前にして沸き起こる熱気などたかが知れている。持ち帰って、ボールペン片手に、その分厚い表紙を開いてみると、ただ真っ白な空欄である。憧れていた「粋」の正体とは、この膨大な空間をチマチマ書き埋めていく、延々と職人的な作業であり、それ以上でも以下でもない。

大人になる、とはどういう事か。出来なかったことを克服し、成長することだと思われる。不意に、思い立った。22歳にして、日記をしたためる粋な大人になろうではないか。

 

同じ失敗は避けるべきである。ひとまず、東急ハンズやLoftへ出向いて豪華なノートを買うのは辞めておく。机の上に放ってある、200円のリングノートを使うことにした。普段、思い付いたことをシャープペンでのろのろ書き込んでいるだけなので、まだ十分に余裕がある。しかし、同じシャープペンで日記を書き加えていけば、日記と、くだらないメモとが、判別出来なくなりそうである。

万年筆を買うことにした。日記といえば万年筆だろう、ドンキホーテで300円のものを購入した。商品名に「ブルーブラック」とあるが、書いてみると、油性ボールペンの青色と大して変わらなかった。

これが5月下旬の話である。

 

今日までの約2ヶ月、書いたり、3日書かなかったり、波はあれど、何とか「日記をしたためる大人」にはなった。食事内容や買った物の値段まで、事細かに記録していった。生活が自覚的になったり、自分への理解が深まったり、そういう確実な変化が起こるはずと思っていたが、生活に変化は無いし、私は変わらずヨロヨロしている。やはり、5年、10年と続けないと意味が無いのだろうか。2ヶ月間の発見は、安い万年筆の水っぽさである。

毎日の記録はさておき、起床時間や訪れた場所よりも、例えば、刻まれるキュウリの匂いから「冷やし中華の前兆」などというフレーズを思い立ったり、そういう発見をしたためておくほうが、私にとっては「粋」であるようにも思われた。

青色のページは、今日で最後になるだろう。

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