「進路選択」_3/4

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「雨木さん」

 話すのは、あの日振りだ。革靴を履いて、脱いだ上履きを下駄箱に揃えて、雨木さんはこちらに向き直った。胸に下したツインテールが、風に吹かれて揺れていた。グラウンドからは、微かに野球部の掛け声が聴こえてくる。部活動に属さない生徒はとっくに帰っている時間だから、静かな昇降口には私たちの他に誰も居なかった。

「今日も自習?」

 雨木さんは私の真意を測りかねるように、曖昧に頷いた。毎日自習に励んで、成績が良くて、クラス委員で、それで卒業したら死ぬんだ。

「さっきまで進路相談室に居たんだ。先生は、進学か安楽死にしろって」

 私も下駄箱から革靴を取り出す。

 しゃがんで靴を履きながら、無意識に口をついて出た。

「雨木さんはさ、なんで死ぬことにしたの?」

 

 数秒の沈黙の後、ふっと吹き出す声に顔を上げると、雨木さんは暑さに上気した顔を歪めて、私を見つめていた。瞳には、あの日のような苛立ちは無い。ただ蔑むように私を見下ろし、そして口を開いた。

「じゃあ聞くけど、あなたは何で生きていくの?」

 

 何で、生きていくのか。

 死にたくない理由を考えたことはあっても、生きていく理由について考えたことがあっただろうか。

「何でって。結婚したり、子どもを産んだり」

「結婚出来なかったら死ぬの?子どもを作れなかったら、生きている意味が無いの?」

「そうじゃないけど。他にも、やりたいこととか、夢とか、これから出来るかもしれないじゃん」

「出来なかったら?やりたいことも夢も無くて、結婚も出産も出来ずに、その時はどうして生きていくの?」

 雨木さんは、あくまでも冷静な声だった。

 私は、しゃがんだまま立ち上がれずにいた。制服の衿ぐりから自分の体温が立ち昇って、顔が熱くなるのを感じた。

 生きていくことについて、人に説明できるだけの根拠など、これっぽっちも無かったのだ。けれど同時に、絶対に死にたくない、という怒りにも似た感情がムクムクと首をもたげていた。

 

 雨木さんはゆっくりと瞬きして、視線を落とした。

「私は、小学生の頃からずっと勉強だけしてきたし、中学でも高校でも毎日必死に勉強した。それ以外にやることが無かったから。でも、もういい。大学に行って、また同じように勉強するのも、就職して毎日会社に通うのも。これから先、今と変わらない一日が無限に続いていくだけなのに」

 生きていく意味が無い、とつぶやくように言った。

 

 生きる意味が無いから死ぬという。生きる意味が無いことは、死ぬ理由になりうる。

 私は、死ぬ意味が分からない。死ぬ意味が無いから、生きていく。生きていく理由が無いんじゃない。死ぬ理由が無いから、生きていくんだ。

 

「雨木さんは、死ぬまでの間、何するの?」

 膝に手をついて立ち上がる。額の汗がポタポタと落ちていく。生理的にぐらつく視界に、雨木さんの髪が揺れていた。

 向かい合って立つと、雨木さんは私より少し背が低かった。低い位置で結われた髪は、なびく度に陽に照らされて光っていた。私を射抜いていた瞳は、黒くて大きくて透き通っていて、どこにでもいる、ただの17歳の目だった。

 

「勉強するんじゃないかな、それ以外は思いつかないや」

 雨木さんは静かにつぶやいて、そして少しだけ、ふふっと笑った。

 

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