運命未満をやり過ごす

運命、という単語を辞書で引いてみると、「人に幸不幸を与える人智を超えた力」とある。ひとつの出会いやきっかけから、偶然の巡り合わせが重なり合い、向かうべき結末へと進んで行く、その起承転結、それぞれが運命と呼ばれるものであり、それら一連の流れをひっくるめてもまた、運命と呼ぶ。今日この場においての「運命」とは、決まった結末へと押し流す力ではなく、ひとつひとつの出来事、きっかけ、つまり「あるひとつの偶然」という1点を指す。

 

運命的な出来事とは大抵、その瞬間では、日常に紛れる些細な偶然のひとつに過ぎない。偶然の先に地続きになった現実が、かけがえのないものになって、初めて「あれは運命だった」と表現される。当時は単なる偶然に過ぎなかった出来事が、あとから振り返ってみると、その余りにも大きい影響力に、もしかして必然だったのではないか、起こるべくして起こったのではあるまいか、そう気付いて、ようやく運命は運命として認識される。

しかし、些細な偶然と言えど、後に運命となる出来事には、他とは違った輝きがあるように思えてならない。人との出会い、ひとつを取っても、コンビニで同じお菓子に手を伸ばしたのと、図書館で同じ本に手を伸ばしたのとでは、生まれるロマンチシズムが全然違う。特別に輝きのあるイベントであって欲しいし、そういうロマンチックに憧れているからこそ、人は「運命の出会い」「運命の相手」という幻想に浸るのではないか。運命なら運命らしく、可能な限りドラマチックであって欲しい。少なくとも、私はそう思う。と言うのも、私が普段、全然ドラマチックじゃない「人智を超えた偶然」を抱え続けているからなのである。

 

家を出て、コンビニまで歩く途中、駅まで出掛ける道すがら、散歩中、あるいは、その帰り道、必ずと言って良いほどすれ違う男性がいる。追い越したり、追い越されたりするのではない、必ず「すれ違う」のである。男性は必ず、私の正面から歩いてくる。つまり、私を見つけて追いかけて来ているわけじゃないのである。私が、何の気無しに家を出て、数分歩くと、一本道の向こうから、曲がり角の向こうから、偶然、その男性が歩いてくる。時間帯もバラバラである。久しぶりに昼間出掛けても、夕方買い物に出掛けても、夜中に突然、コンビニへ行こうとしても、数回に1回の確率で、男性は向こうから歩いてくる。一度、早朝だか深夜だか、突発的な用事から帰る途中、疲れ切って霞む視界に、その男性が歩いてくるのを見た時には、思わず正面まで駆け寄って、抱きしめてしまおうかと思った。

毎度、本当にただの偶然なのである。恐らくは近所に住んでいて、生活圏内が同じ、ただそれだけ。しかし、同じような条件の人間が数十人いるだろうこの街で、これだけ何度もすれ違うのは、この男性、1人だけである。「そう言えば」と咄嗟に外出してもすれ違うのを見るに、多分、男性と私は「そう言えば」を思い立つ瞬間が同じなのだろう。すれ違う地点が同じなら、そこに至るまでの過程、家を出た時間、食事を済ませた時間、起床時間、全てが、常軌を逸した高確率で重なっている可能性がある。紛れもなく「人智を超えた偶然」である。

運命と呼ぶに相応しい奇跡に違いないが、しかし、運命と呼ぶには、あまりにも地味、加えて、頻発し過ぎている。生活に溶け込み過ぎている。声を掛ければ、あるいは運命になり得るのかもしれないが、実際に行動を起こすには、いささか魅力に欠ける。私はこの「運命未満」を、実に数年前から抱え続けている。

 

声を掛けたり名前を聞いたり、その後の交際があった上で初めて「あれは運命的な出会いだった」と呼べるわけで、声も知らず名前も知らずの状態では、決して運命にはなり得ない。数多の人間たちが「運命の相手」を血眼になって探している中で、平然と「運命未満」をやり過ごし、キープし続けているというのも、なかなか贅沢な話である。運命として消費されない「運命未満」の偶然が、この世に1つくらいあっても良いだろうか。もし、この先、私が「運命だった」と感じる出来事に出会えなかったら、その時は、男性に声を掛けてみようか。

私がそう思うのだから、男性もきっと、そう思っているでしょう。なんてったって、運命未満の相手ですから。

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