夢現

龍角散を舐めている。CMでよく見る粉の方でなく「すっきり飴」の方である。先週、喉がいがらっぽいからと買ってきて、余った分を冷蔵庫に突っ込み、そのまま忘れてしまっていた。

一度に3個口に放り込み、カラコロやりながら袋の栄養成分表示を眺める。1袋全部で342キロカロリー、1粒あたり約10キロカロリー。

1袋分を鍋で溶かし、冷やし固めて、巨大な龍角散の塊を作れば、それはおにぎり2つ分と同等のカロリーということである。高校時代は昼食後、毎回数粒舐めていたから、弁当に加えておにぎり一口分齧っていたということか。

 

ふと我に帰る。

自分の中で勝手に「龍角散」から「高校時代・弁当」という記憶を拾い上げたが、本当に実際、高校生の私は毎日弁当を食べ、龍角散を舐めていただろうか。

ほとんど反射的にノスタルジーを感知してしまったが、それが「実在した過去に対するノスタルジー」なのか、例えば「こうだったら良かったなあ」という「想像上の過去に対するノスタルジー」なのか、見分ける術が自分には無い。

 

 

私がフィクションを作れない理由は、この辺りにあると思われる。

 

自分が日頃、どの方向を向いて、どう生活しているかという第三者的な認識が、全く欠落しているのである。

恐らく一般的には、現実の地に足を着き、想像・妄想はその上に浮かばせるか、もっと高い標高に地面を作る行為である。大前提として現実は常に0m地点で固定され、想像の地は100mとか、そういう地点に建設される。

一方で私の場合、現実と想像とが地続き、事柄が全て同じ標高に建築される。生まれてから今まで地面は1枚だけ。故に、そびえ立った事柄を見上げて、それが今さっき作ったものなら見分けもつくだろうが、数日、数年経ってしまえば、現実で作ったか想像で作ったか、判別する方法が無いのである。

 

フィクションとは、作者は0m地点にいることが前提であり、頭上に新たな地面を作り、その上に建築されたものだと想像する。「想像」が0m地点に建ってしまっては、いつまでも「新たな地面」が完成しない。

常に地に足着いている、その地が地面の全てであり、「新たな地面を作る」とはつまり、全く別次元の宇宙を0から作る必要がある。一般的な作家が「現実の0m地点」がある上で「フィクションの地面」を作るのに対して、私は分子レベルから、まずもう一つの宇宙を錬成しなければならない。

つまりは「私がもう1人いれば、新しい地面が出来るだろうな」などという無理難題である。

 

 

口の中で転がる龍角散は、いつ、どうやって建築した記憶だったか。

だだっ広い荒野に無数に建ち並ぶ事柄を、ひとつずつ見上げて検証する作業が、私の日常のほとんどを占めている。

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