12月17日(プッチンプリン)

深夜、台所で洗い物をしていると、シンクの隅にプラスチックの容器が転がっていた。拾い上げてみれば、側面が波打つように変形しており、どうやら「プッチンプリン」の容器らしい。恐らく、父が食べたものだろう。

先日65歳になり、めでたく高齢者の仲間入りを果たした父だが、年齢性別に関係なく、甘党はいつまでも甘党であり、無論、私にも遺伝子レベルで受け継がれている。

おじさんが夜中にこっそり「プッチンプリン」をお皿に「プッチン」する様子を想像し、「随分可愛らしい趣味だな」とニヤニヤしながら容器をスポンジで擦る。泡を洗い流そうと容器をひっくり返した瞬間、重大な事実が判明した。底面の「つまみ」が折られていないのである。

 

「つまみ」とは、世の中に溢れる数多のプリンの中で「プッチンプリン」だけが唯一所有する突起である。「プッチンプリン」の「プッチン」とは、この「つまみ」を折って皿にプリンを盛り付ける行為であり、「つまみ」がそのままという事はつまり、「プッチンプリン」を「プッチン」せずに消費したことを意味する。

確かに、夜中にひとり、洗い物が増えるだけにも関わらず、わざわざ皿に開けて食べるかと言われれば、どう頑張っても「孤独」の2文字が浮かんでしまうことは否めない。しかしながら、そんなことはお構いなしに「プッチン」されプルプル震えるプリンの様子に小さく感動し、幾分か童心に帰って懐かしい感性を思い出す。それが「プッチンプリン」に対しての、大人のあるべき態度ではなかろうか。

 

そもそも「プッチンする」とは商品プロモーションの過程でグリコが生み出した独自の動詞であり、例えば「ググる」「ツイートする」と同等のブランド力があるように見える。ちなみに、「プッチンプリン」はGoogleより20年近く先輩である。

Googleで検索する時は「ググり」、Twitterに投稿する時はもれなく「ツイートする」。どちらも利用するなら必ずする行為であるのに、では何故「プッチンプリン」を食べる際には「プッチン」しないことがあり得るのか。

 

この容器同様、これまでに「プッチン」されなかった「プッチンプリン」は数え切れないほどあるのだろう。

「プッチンプリン」を前にして、今一度よく考えてみてほしい。「プッチンプリン」が「プッチン」するプリンとして、常にプリン業界の最前線を走り続けてきた歴史を。「プッチンする」、その一瞬の行為に、いかに特別な技術とブランドの誇りが詰まっているのかを。

 

泡を洗い流し、ピカピカになった容器の底面に刺さる「つまみ」に指を掛ける。

「プチッ」と、それはどこか懐かしい、軽やかな響きであった。

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