入浴剤を買いに

20時を過ぎても、雨は途切れることなく静かに降り続いていた。平日の夜にも関わらず、路上に人の姿はまばらで、アスファルトが雨に濡れて暗黒の染みを作っている。東京が最も冷え込む2月の夜に、さらに降りしきる雨の中を歩くには、部屋着のパーカーにジャンパーコートを羽織っただけの私は、あまりにも装備不足に思われる。しかし、家を出る前に想像していたドラッグストアまでの道のりは、もっと、ずっと近いはずだったのである。

 

入浴剤を切らしていた。本当は昨日の夜、風呂に入った時点で既に気付いてはいたのだが、一晩明けて、今日は朝から雨であったし、とりわけ外出する用事も無く、ダラダラとパソコンに張り付いて、嗚呼そろそろ風呂を入れなければ、と、それでようやく思い出した。買いに行かなければ。

どこにでも売っている、乳白色で甘い香りの、なんでもない入浴剤である。生活に必須、というほどの物じゃないが、初めて使ってみて、得られる唯一の満足感を知ってしまったら最後、もう以前の状態には戻れない。歯磨き粉と同類である。歯磨きなど、極論、水と歯ブラシだけで事足りるだろうに、歯磨き粉のあの爽快感を知ってしまったがために、二度と水洗いなんかには戻れない。歯磨き粉を切らしていたことに気付いて、それが例え夜中だとしても、買いに行かずにいられる人間は、どれだけ居るだろうか。

想定より2倍近くの時間をかけて、深夜営業しているドラッグストアに辿り着いた。店舗のホームページに書いてあった通り、0時まで開いているらしく、店内は煌々とした明かりに満たされている。ぐっしょり濡れたビニール傘を傘立てに突っ込んで、入浴剤コーナーを目指した。商品棚の上から下まで隈なく見て回ったが、悲しいかな、我が家でいつも使っている「ホワイトフローラルの香り」の入浴剤は置かれていない。仕方なく、似たパッケージの「バニラフローラルの香り」の入浴剤ボトルをレジに持ち込んで、会計した。足元は雨を吸って、靴下まで染み込むほど濡れていた。もはや一刻も早く、乳白色の湯に浸かりたかった。入浴剤ひとつだけを抱えて、雨の夜道を足早に帰った。

 

「バニラフローラル」は「ホワイトフローラル」に比べて、数倍甘ったるい香りである。「バニラ」よりも「杏仁豆腐」が正しい。入浴すれば、血糖値が上がりそうなほどである。人間は皮膚から糖を吸収するのだろうか。身体を浸けるだけで体内に影響を及ぼす、という話は聞いたことがない。皮膚からは無理でも、例えば砂糖を皮下注射でもすれば、案外吸収するだろうか。杏仁豆腐を湯に溶かして、皮膚のすぐ内側に注入する様子を想像してみて、以前打った皮下注射の激痛を思い出し、身震いした。

 

甘ったるい香りの乳白色の湯船は、夜雨で冷えきった四肢をじんわり温めた。私が湯に浸かって得られるのは、甘い温かさという満足感、ただ一点だけである。しかし、その一点を得るためならば、例え夜中だろうが雨だろうが、自ら買いに行く手間を惜しまない。これを、贅沢と言わずして何と言えよう。白い湯船から湧き上がる湯気が、私の23年間ずっと空欄だった「趣味」の項目を、ゆっくり満たしていくように感じた。

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