本を読んでいると、左手の甲に、黒いゴミが付いていた。特別意識せずに払い落とそうとして、ギョッとした。蟻であった。5ミリ程度の小さな蟻が、真っ黒な体をテラテラ光らせて、手の甲を横断していた。
ゴキブリでも蜘蛛でも無く、蟻である。家の中で蟻を目にする機会など、滅多に無い。以前、「室内を這うゴキブリよりも、大自然をのびのび走るゴキブリの方が不気味」という話を書いたが、蟻は全く正反対である。蟻は、公園やグラウンドや、山や河原や原っぱで、目を凝らしてようやく出会える生き物であって、パソコンやら布団やらが置いてある鉄筋コンクリートの室内で、ひょっこり目が合ってはいけない。蟻が這うべきは、フローリングじゃない。土である。私の手など、論外である。
素早くティッシュに右手を伸ばす。引き抜くまでのコンマ数秒で、今日1日の己の行動を思い返した。昼過ぎに、チョコレート菓子を数個、この部屋で食べていた。クッキーが入った、ザクザクしたやつである。私は、食べ終わったお菓子の包装紙を結ぶ癖がある。菓子を取り出し、こぼれたザクザクの粉末が包装紙に残って、結ぶ際に机や床へ散らばった。まさか、そんな微々たる食糧を目指して、ここまで辿り着いたというのか。
人間の家屋は、蟻にとっては見上げ切れないくらいの高さである。そんな雲の上に、お菓子の粉が数粒散らばったからといって、わざわざ目指す気になるだろうか。地面には、チョコレート菓子のような高カロリーな食べ物が存在しないのだろうか。
蟻の集合住宅、食糧がつき、群れは絶滅の危機に瀕する。重役たちの会議により、群れで最も若く、体力のある青年蟻が、食糧を探す役に選ばれる。天空に、菓子の粉が数粒撒かれる音がした。せめて、アレさえ持ち帰れば。幼い子どもたちだけでも、飢えを凌げるかもしれない──。
私は虫が嫌いである。蟻に同情は出来かねる。
ティッシュで蟻を包み上げて、ゴミ箱に放った。手を合わせて、「南無阿弥陀」と10回唱える。1匹殺すと、そいつの仲間に復讐されるのが恐ろしいので、虫を殺す度に唱えるようにしている。これも癖である。
心なし身体が痒くなってきたので、風呂に入った。