煩悩について

大晦日の夜、紅白歌合戦もそこそこにテレビを消して、パソコンで年間予定を弄ったり、デスクトップに散らかったフォルダを整理したりしていたら、いつの間にか0時を回っていた。

「年明け」は年齢を重ねるに従って新鮮味が無くなり、小学生の頃などは日付が変わるまで起きていること自体が大イベントであったが、今では1時、2時の就寝が通常運転なのだから、仕方がない。もう10年も経てば、年明けの瞬間など、夢の中で過ごしているだろう。

 

 

快晴の正月。日常的に神など信仰していないにも関わらず、初詣は当然為すべきミッションであり、お賽銭を握りしめ、いそいそと神社までやって来た。

そもそも、その神社の神が何処ぞの誰かも知らず、年に一度しか来ないから、お賽銭も幾ら供えるのが妥当なのか、いつまで経っても覚えられない。結局は「これくらいで願いを聴いてくれたら嬉しい」という、えらく自己中心的な見込みで100円玉を投げ入れ、今年1年の成り行きを神頼みする。正月早々、随分と煩悩に溢れていやしないか。

 

たった数時間前、我々の108個にのぼる煩悩は、全国で一斉に打ち鳴らされた除夜の鐘によって、綺麗さっぱり吹き飛ばされたはずである。何故、夜が明けたら元通り、こんなにも欲にまみれているのか。

1人1人が各々108個の煩悩を抱えているとして、単純計算で日本列島には常時約130億個の煩悩が蠢いていることになる。それらが大晦日の夜、一斉に祓われるのだから、日付が変わった瞬間の夜空は星が見えないほどの煩悩で埋め尽くされていただろう。悲惨な光景である。

しばらく空中で停滞していた有象無象の煩悩も、初日の出に照らされる頃には、またゆっくりと地上まで降りて行く。日が昇りきり、初詣に出掛ける人間たちの頭上には煩悩のシャワーが降り注ぎ、ポツポツと身体に吸い込まれ、参道の行列に並ぶ頃には布団の中で考えた「今年の抱負」などすっかり頭から消え失せてしまう。

 

お賽銭を投げ入れ手を合わせ、昨日ぶりに回復した煩悩が、神の面前へとほとばしる。

「100万円が欲しいです」

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