忙しい。一日中パソコンに齧りついて、何かしら作業する毎日である。気付けば1ヶ月以上もゲームを触っておらず、ただ暗闇だけを映し続け、沈黙するゲームモニターが不憫でならない。「今日は寝る前に遊んじゃおっと」なんて想像してみても、いざ風呂から上がれば、エンターキーを押してカチャカチャやり始めている。1920×1080の範囲内が、世界の全てだ。よろしくない。
何でもいいから、画面以外のものを見たい。すっかり書籍からも離れてしまっているから、久しぶりに読書を、紙に印刷された文字を眺めてみようか。坂口安吾を読みたい。
思い立ったのは風呂の前、せっかくだからと、文庫本を風呂場まで持ち込むことにした。
小学生の頃などはよく、親が職場でもらって来た漫画誌を風呂に持ち込んでいた。コンビニで売られている、安価で分厚いヤツである。
「浴槽から手だけを出して漫画を読む」という、小学生らしい ささやかな反逆行為に、特別な背徳感、優越感を感じていた。
シャワーを終え、手の水気を拭いてから脱衣所の本を拾う。浴槽に落とさぬよう、細心の注意を払ってお湯に浸かる。ページを捲れば、煙たい水蒸気の中、活字が浮かび上がってくる。
目が悪いから、ほとんど顔にくっ付きそうなくらい目の前に本を掲げる形になる。顔からと浴槽からの湯気でスチームされ、10分も経てばページは湿り気を帯びてしっとりしてくる。紙同士が僅かにくっついて、それを剥がしながら続きを読み進める。
「読書風呂」、実に贅沢な読書空間である。坂口安吾も、まさか風呂場で、「浴槽にドボン」の危険と隣り合わせで読まれるとは、想定していなかっただろう。
大量の水の粒子と共に、文章を咀嚼する。「不良少年とキリスト」をボロボロ泣きながら読んでいた。「読者風呂」の良いところは、いくら泣いても帳消しになる点である。
ボロボロ泣いて、満足したので、風呂から上がった。机の上に本を投げ出せば、すっかり水分を吸った表紙が、大きく反り返っていた。
今夜は一晩中乾かして、また明日の風呂で読もうか。