年内の予定をあらかた済ませてしまったので、本来なら行事や仕事納めで忙しくなるべき師走を、完全に持て余している。このままだと空虚と化した「12月の1か月間」はユラユラと宙に浮かび上がり、忙しない世間をぼんやり眺める私の頭上に「膨大な虚無感」として停滞し続けることだろう。
暇を持て余して何をしているかと言われれば、ここ数日間はYouTubeで配信者の雑談を垂れ流しながら、ボールペン字の教科書を延々なぞり続けている。
見渡せばあらゆる場所に溢れている「文字」だが、令和のこの時代、黙読することはあっても「文字を書く」機会は全くと言って良いほど無い。加えて、私はこれまでの人生で、文字の造形・美しさ・書き順に微塵も興味を抱いてこなかったので、第三者的に見ると、それはそれは、恐ろしいほどに字が汚い。
日常的に書く機会が無いということは、自分の字を他人に見られる機会も無いということである。
じゃあ「見られないなら、汚い字でもいいや」と開き直れるかと思えば、そんなことはない。曲がりなりにもブログを書いており、文を読むこと・作ることが好きだと公言している手前、「でも文字には何の関心もありません」というのは、いささか無責任ではないか。
例えば、汚い直筆でブログを投稿したとして、これまでと同じように読んでもらえるだろうか。あるいは、魅力的な字で書いた文章は、ゴシック体で打ち込まれた文章よりも高く評価されるかも知れない。文字の見た目は、内容とは違うベクトルで、文章の評価に少なからず影響を与えるのである。
日常生活で文字を書く機会は極限まで減って来ているが、だからこそ「直筆」は「人に見せるためだけに文字を書く瞬間」としてスポットライトを浴びている。
今後、スマホ・PCの操作性は格段に上がり、また、AIの更なる進化に伴い、我々が自分で字を書く機会は今よりもっと珍しいことになるだろう。しかし、何百年間も紙に文字を書き続けてきた人間が、そう簡単に「書く」ことを辞めるとは到底思えない。
字を書く機会が減るに従って、「直筆」のスポットライトはどんどん強くなっていく。そんな未来で「魅力的な文字で文章を書く人」は、作家としてより高く評価されるのではなかろうか。
内容は勿論、見た目も美しい文章として評価されるべく、今日もせっせと教科書をなぞっている。