招き猫を買った話

20代の内に持つべき物は何か。所有品、購入品とは、限りなく個人の趣味趣向に基づいた物であって、そこに「べき」を用いること自体が不粋であるというのは重々承知の上で、どうしても、ひとつ、強く提案したい。招き猫である。招き猫とは、あの招き猫である。ラーメン屋の券売機の上に置かれていたり、定食屋のレジに座っていたりする、アレである。なぜ、店を持つわけでもない個人の、さらには20代前半の私が招き猫を持たねばならなかったのか。それを説明するには、まずは招き猫という「日常の特異点」について語る必要があるだろう。

 

私が生まれて初めて小説を書いたのは、15歳の時である。愛読していた推理小説に憧れて、1000文字程度の短いミステリーを書いた。作中には読者の先入観を促すような表現を入れ込んで、全体を通して「語り手は誰か」という問題を提示した。愛読書を真似た、私なりの叙述トリックであった。そして、答えを言ってしまえば、この作品における「語り手」というのが正に、招き猫だったわけである。

どういう経緯でそうなったのか、ともかく、初めて小説を書いてみよう、それもミステリーを、と思った時に、キーワードとして、と言うより、もはや作品全体のテーマとして、身の回りの数ある物事の中からわざわざ選び取ったのが、招き猫。一般的な日常の範囲内に確実に存在するもの、しかし、個人の生活の中で、必ずしも深く関わるとは言えない異質なもの、その両方を満たす存在が、招き猫、そのものであった。当時はネットを全然やらなかったから、私は完全に想像で、招き猫について書いていた。今、眼前に佇む招き猫は、その時想像していたよりも遥かに派手な出で立ちで、それでいて、ひどく芸術的である。

日常の特異点、と言えるだろう。我々日本人の中に、これまでに招き猫を手に取り、凝視し、その感触を確かめたことがある者は、どの程度いるだろうか。触ったことも無く、実物が無ければ絵に描くことすら難しい、しかし、実際に対面すれば、全員が「招き猫である」と断言できる。異質、極まりない。日常にあって、日常でない。日常の特異点、である。似た性質のものに、信号機が当てはまると考えている。私は一時期、信号機の、あの光る部分を丸ごと買おうと、本気で悩んでいた時期があった。

 

「日常の特異点」を所有するとは、つまりどういうことか。日常の中に、絶対的に影響を受けない、かつ、及ぼさない、生活とは全く無関係の、揺るぎない一点を持つ、ということである。仕事に失敗しようが、宝くじが当たろうが、食事が不味かろうが、恋人が出来ようが、招き猫は招き猫であって、それ以上にもそれ以下にもなり得ない。生産も消費もせず、時間が経っても大して傷まない。そういう堂々たる基準が、1人につき1つくらい、あって然るべきではなかろうか。

もちろん、それが信号機であっても構わない。友人や恋人であったら、さらに幸福である。私の場合は、招き猫であった。私の生活から最極端の、最も遠い場所にあり、しかし、絶対にそこにあると断言できるもの。私の生活の全ては、この招き猫という分銅によって均衡を保っている。

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