「人」の最大公約数

人が何をもって他人を「人」として認識しているのか、というのは興味深い問題である。何を持って、とは、視覚的な認識ではなく、感受性の意味合いであり、ここで言う「人」とは見た目の話じゃなく、「人と会った」「人と話した」と表現する際の、抽象的な「人」という概念そのものについてである。

 

見た目についてなら、簡単である。3点が逆三角形に並んでいると人の顔に見える、というのは有名な現象で、シミュラクラ現象と呼ばれる。人が「人の顔」として認識出来る、最も簡単な図形が3つの点であり、3点さえ揃っていれば、人はそこに「人の顔」を見る。3点は、顔の最大公約数と言える。身体全体についてはどうか。簡略化の最たるものとして一般的なのは棒人間だろう、丸と5本の線さえあれば、大抵の人が「人の身体」だと認識出来る。

では、前述した「人」という概念そのもの、については、これは個人個人の感受性によって最大公約数が違ってくるのではなかろうか。

オンライン会議が当たり前の昨今、画面越しで接するだけで「人と会った」と感じる人は、果たしてどのくらい居るだろうか。直接に対面しなければ「人と会った」とは言えない、電話では足りない、メール、チャットなど論外、と言う人が居る一方で、例えばオンラインゲーム内でチームを組めば、「人と一緒に遊んだ」と満足出来る人も居るのである。

直接での対面のみ「人」を認識する人は、声や行動、つまり人体そのものが伴っていないと、総合的に「人」として認識しづらい、ということかもしれない。オンラインゲームでも「人」を認識出来る人は、他人の意識、もしくは最低限、意識が反映された物さえあれば、「人」としてカウント可能、とも言える。どちらが良い、悪いとは言い切れないが、前者の場合、現代社会は少し寂しい世界かもしれない。

 

見た目についての理論は調べればいくらでも出てくるのだが、概念的な部分は、謎である。人とかけ離れた見た目のアバターやアイコンを「個人」として扱う現代で、そもそも人が「人」をどういう根拠で認識しているのかは、重要な問題であるように思われてならない。

ところで、私は「意識が反映された物さえあれば人として認識出来る」タイプの人間なので、Twitterを開けば「大勢が密集している」と圧倒され、大人数のオンラインゲームなどプレイしようものなら、実際フェスに参加したかのような満足感がある。概念的な最大公約数は、簡単であればあるほど、安上がりという利点がある。

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