「人間失格」は何冊あっても良い

漫画や雑誌を、読む用、観賞用、保存用、同じものを何冊も買うというのは古今東西あらゆる愛好家達がやってきたことだが、小説は聞かない。ひとつの小説作品を、例えば単行本は持っていても、文庫化されたならそれも欲しい、というのはあるかも知れないし、加筆修正された改訂版も是非読みたい、というのが読者であろう。しかし、内容、一字一句全く同じ、出版社も同じ、大きさも同じ、隅々完全に同じ小説を何冊も買うこと、あるだろうか。読むほかに、観賞も保存もない書籍を、どうして複数冊、手元に置きたがるのか。私の机の上には今、2冊の「人間失格」が置かれている。

 

どちらも新潮文庫である。一方はショッキングピンクのカバーで、もう一方は漆黒である。いずれも新潮文庫が毎年発売する「プレミアムカバー」というやつで、文豪の名作が、お洒落な期間限定カバーで登場する。当たり前だが、カバーを取ってしまえば、全く同じ本体が現れる。

ショッキングピンクは2008年のプレミアムカバーで、これは友人に貰った。ショッキングピンクに刻まれた「人間失格」のタイトルがあまりにもアンバランスで、情感溢れていて、良い。何十回と読み返した「人間失格」は、全てこのショッキングピンクの中にあり、私にとっての「人間失格」とは、孤独ではなく、修羅である。

ここ数年のプレミアムカバーでは、「人間失格」は黒いカバーをかけられていた。黒に赤文字、黒に白文字、今年は黒に紫文字である。陰湿過ぎる。こんなに静かな話じゃないだろう。書店で黒いカバーを見かける度に、心の中で「陰湿ですねえ、嫌ですねえ」とぼやいていたのだが、先日、遂に気付いてしまった。「人間失格」が初めて黒いカバーをかけられてから、つまり、少なくとも3年以上もの期間、私は「黒カバーの人間失格」に毎度しっかり注目し続けていたのである。

 

欲しいのではないか、と思った。3年以上、ひとつの商品について、これほどしっかりした感想を持ち続けることが、あっただろうか。黒いカバーを、手に取った。良いではないか。本棚に、修羅の「人間失格」と、陰湿孤独の「人間失格」とが並んでいたら、通っぽくて良いぞ。黒カバーの「人間失格」をレジに持ち込んだ。運悪く、夜中の散歩中だったから、よれたTシャツにボサボサの髪という酷い格好であった。私の貧相も相まって、黒カバーの陰湿さは確固たるものとなった。

 

持ち帰って、一応、ショッキングピンクと比べてみたが、ページ数、文字の大きさ、解説まで全く同じである。平置きにして並べると、黒カバーの方が若干、分厚く見える。紙質が良さそうである。

カバーによって、内容の理解が変わるかも知れない。今のところ黒の方が、落ち着いて読んでいる気も、しなくは無い。心なし高尚な気分である、ようにも思える。作品自体が好きなら、カバー違いでコレクション、というのも、アリかも知れない。読み始めてしまえば、結局違いなど分からないのだけれど。

 

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