蓮池

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」は、御釈迦様が蓮池のまわりをぶらぶら歩くシーンから始まる。学生時代に朗読の課題で何度も読まされたので、よく印象に残っている。

日本庭園の真ん中に、つるんと丸みを帯びた石が円形に並べられ、その中は冷たく澄んだ淡水がたっぷり揺らめいている。水面には顔より大きい蓮の葉が数枚、寄り添って開き、中には雫をかぶってキラキラした真っ白の花が2、3顔を覗かせており、そういう蓮のまとまりが幾つか浮かんでいて、池全体を俯瞰すれば一つの生け花のようになっている。

そんな美しい風景を、思い描いていた。実際に描けるくらい丹念に想像していたから、朗読ではよく褒めてもらった。「極楽の蓮池」についての解像度には自信があった。

 

上野公園の南に、不忍池という広大な池がある。周囲約2キロ、面積は実に11万平方メートルある。動物園から橋を渡って、すると脈絡なく正面に現れる。都会人的には「湖」と呼びたくなる広さの馬鹿でかい池である。テニスコート何面分あろうかというその水面を、キャベツのようにビラビラ大きい葉っぱが、びっしり埋め尽くしていた。視界めいいっぱい、水面は全部、青々と元気な葉っぱである。水が見えないほど隙間なく埋め尽くしている。広大な畑。街のプロジェクトで水耕栽培しているような、膨大な規模の畑。近付いて、覗き込んでみた。私は植物に詳しくない。だが、そんな私でも、この葉は、蓮のように見えた。

こんなことがあってたまるか。蓮池とは、情緒ある、穏やかに、慎ましい、ささやかな庭池である。蓮は、そこにふんわり浮かべられた装飾品に過ぎない。その周りを、釈迦が日課で「ぶらぶら」御歩きになるのだ。こんな、11万平方メートルに、わさわさ埋め尽くすほど栽培された蓮畑など、情緒も何もあった物じゃない。「ぶらぶら」鑑賞する間もなく、手入れが必要である。覗き込んでも、葉しか見えぬ。掻き分けても掻き分けても、蓮の葉が邪魔になる。カンダタは永遠に地獄の底である。

 

「これは蓮じゃない」「蓮であってはならない」、それだけを念じながら、畑をぐるっと一周した。観光客は誰も、畑の有り様について注目していなかった。私1人だけが、血眼になって説明を求めていた。

畑について、1枚だけ看板があった。大きく「ハス:花の見頃は7月から8月です」とあった。

 

御釈迦様は、水面に青々びっしり生え盛る蓮畑の周りを、毎朝2キロ、ランニングしていたのかも知れない。

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