ド忘れ

パソコンで3時間弱の作業を終えて、小用に立った。ギチギチと音を立てそうな肩の軋みを感じながら、洗面所で手を洗って、ふと顔を上げてみると、鏡に己の上半身が映っていた。

 

オーバーサイズの、いかにもな部屋着のTシャツと、高校時代から着続けているジャージとを引っ掛けた自分の姿を目の当たりにして、思いがけずショックを受けた。羞恥に似た動悸があった。家の中限りの格好だから、誰に見せるわけでもない。が、一切の心構えをせずに、突然、部屋着のぐったりした自分を直視させられて、我に帰った。反射的に「みすぼらしい」という言葉を思い立ったが、いや、もっと的確な、別の表現があったはずである。何か、もう少し品があるというか、「みすぼらしい」に品も何も無いだろうが、少なくとも文章的な、自己否定の要素が少ない、知的な言葉が、確かあった。こういうヨロヨロ疲れた様子を、何と呼ぶんだったか。

「みすぼらしい(仮)」の自分を凝視しながら、母親に「もうちょっと雰囲気の良い言葉があったはずだ」とまくし立てて、2人して「何だっけねえ」と考え込む。どうにかして「みすぼらしい」から脱却しなければならない。このままでは、家の中で常に「自分はみすぼらしい」という事実に打ちのめされることになる。

ド忘れした事柄を意図的に思い出すのは、ほとんど不可能に近い。ド忘れ特有の、考え込んでいるはずなのに一歩も思考が進まず、あてもなく、ただ辞典の表紙をぼんやり眺めているような放心状態で、2人とも無言だった。

 

沈黙の数十分が経ち、「もう諦めて、自然に思い出すまで放っておこう」と言いかかって、唐突に「貧相、だ」と大声が出た。

貧相。身なりだけじゃなく、人相、バックボーンまで引っくるめて、貧しさ・切なさを表現出来る。そうだったそうだったと、ド忘れの焦燥が一気に晴れて、2人ですっきりした顔を見合わせて、笑った。

 

「ド忘れからの解放」とは、他人と共有できる一番やさしい困難である。大抵、1人がド忘れする時、もう1人もド忘れしている。

それにしても、わざわざ数十分かけて思い出したのが「自分が貧相である事実」とは、やり切れない。新しいTシャツなりジャージなりを、買うべきなのだろうか。