私が小学生の頃、2010年前後といえば、ちょうど3DSやWiiなどの任天堂ゲーム機が大流行した年代であり、クラスの友達は全員「ともだちコレクション」で遊んでいた。
私はと言うと、そもそもゲーム機を持っていなかったから「ともコレ」はおろか、「ゲームで遊ぶ」という文化を知らない子供であった。ゲーム機を触った記憶は、6歳年下の従兄弟の家で(恐らく)3DSを渡され、「(たぶん)星のカービー」のピンク色の画面で、カービーを一瞬にして死なせたことくらいである。
そんな正真正銘のゲーム初心者が人生で初めてのゲーム機「Nintendo Switch」をプレゼントされ、先日ついに「スーパーマリオ・オデッセイ」をクリアしたので、せっかくだから「ゲームについて」真剣に考えてみようと思う。
ゲームとは何か
ひとえに「ゲーム」と言うと、トランプや人生ゲームのようなアナログなものから最新のFPSゲームまで、幅広いカテゴリーを指してしまう。この記事で書く「ゲーム」とは「コントローラーでプレイするゲームソフトのこと」である。
任天堂オンラインストアを眺めてみて、全てのゲームは大雑把に3つの種類に分けられることに気が付いた。
①プレイヤー対プレイヤーで勝敗を決めるもの
②タスクをこなしていく(クリアしていく)もの
③仮想の世界で生活するもの
「①プレイヤー対プレイヤーで勝敗を決めるもの」は、トランプやすごろくと同じ「人と遊ぶためのツール」であり、古来より続く人間同士の娯楽である。近年大流行の「APEX」はここに分類される。
①が人と遊ぶツールに過ぎないのに対して、「②タスクをこなしていくもの」は「与えられた娯楽を楽しむ」ものである。ゲーム側から提示される数々のタスクをこなして行けば、自動的に決められたゴールまで辿り着くことができる。
「乙女ゲーム」「アイドル育成ゲーム」のように「タスクをクリアしてストーリーを進めていくゲーム」もここに分類しておく。
「③仮想の世界で生活するもの」は、ゲーム内で「現実世界と同じような生活を楽しめるもの」である。ある程度こなすべきタスクはあれど、クリアする順番や方法の自由度が高く、そもそもタスク自体をプレイヤーが選んだり、作ったりが可能である。「どうぶつの森」や「Minecraft」などが分類される。
私がプレイした「マリオ・オデッセイ」は②に分類される典型的な「タスクをこなしていくゲーム」である。
「ゲームでのタスク」と「現実でのタスク」
仕事・宿題・家事などなど、人は日常的に数えきれないほどのタスクをこなさなければならない。にも関わらず、なぜゲームという娯楽にまでタスクを求めるのか。
「マリオ・オデッセイ」では全体を通して「月とコインを集めること」が目的である。ゲーム内で集めなければならない月は全部で880個、コインは合計1000枚にのぼる。6000円で1880個のタスクを購入していることになる。
考えてみて欲しい。夏休みの宿題で二次方程式880問を出されたり、洗わなきゃいけないお皿1000枚を山積みにされたりしたら、どう転んでも異常ではないか。
現実では異常なタスク量が、何故ゲームになると「楽しさ」を感じるのか。
「ゲームでのタスク」と「現実でのタスク」の違いは1つしかない。「やらなければいけない」というストレスがあるか無いか。
「ゲームでのタスク」は「現実ではやらなくても良いタスク」なのである。「やらなきゃいけない」というストレスが無いから「嫌だ・面倒くさい」等ネガティブな感情が生まれない。
つまりは、「現実でのタスク」に感じるネガティブな感情は「やらなきゃいけない」という縛りから発生しているのである。
普段は授業もろくに聞かないような小学生男子が、新学期に配られる新しい計算ドリルを休み時間に嬉々として解こうとするのは、「(今は)やらなくてもいいタスク」を目の前に積み上げられたからである。
「やらなくてもいいタスク」はゲームと同じであり、「やらなきゃいけない」ストレスが無いのに加えて「クリアしていく」ことで「達成感・満足感」等ポジティブな感情が発生する。
仮に「マリオ・オデッセイの月880個、コイン1000枚を○日までに全て取得してください」などという宿題が出たら、それはもはやゲームでは無く「やらなきゃいけない現実でのタスク」となり、「面倒くさい」としか思えないだろう。
余談だが、私は「マリオ・オデッセイ」をプレイ中、常に薄っすらとした「嫌だなあ」を感じており、何故なのかとプレイ中の自分を観察したところ、自分自身で「今日はここまでクリアしたい」というストレスをかけていることに気付いた。
無意識に自分に「縛り」を課してしまう人は、「②タスクをこなしていくゲーム」は向いていないかもしれない。
まとめ
ここまで「ゲームと現実のタスク」を比較してみると、現実において「タスクがあること」のストレスは、タスクそのものではなく「やらなきゃいけないという事実」だということがわかった。
山積みのタスクを前に呆然としてしまう時、「いつまでに」や「必ず」等々の縛りを自主的に緩め、可能な限り「タスクだけが積み上がった状態」に近づけることで、ちょっとでも「こなしていくの楽しそうだな」と感じられたら、多少は気が楽になりそうである。