7月20日(タイポグラフィ)

乗り換えの電車を待ちながら、高架駅のホームからゴチャゴチャとした繁華街を眺めていたら、私の身長くらいありそうな看板に「骨粗鬆症」の文字を見つけた。形成外科か何かの広告である。

初めて「骨粗鬆症」の漢字をまじまじと見たので、「コツソショウショウの "ショウ" は "髭(ヒゲ)" なのか。ヒゲのように骨密度が疎らになるからか、なるほど」と感心しかけたが、よく見たら「髭」ではなく「鬆」であった。

調べてみたら、「鬆(ス)」は単体で「空洞や穴」を意味するらしい。ヒゲよりも遥かに骨粗鬆症に相応しい漢字だが、誤って「髭(ヒゲ)」で書いてしまっても気付かれなさそうだし、前述したように何となく意味も通ってしまいそうである。

 

 

当たり前の話だが、「文は読まなければ何の意味も持たない」。

例えば、書棚から適当な文庫本を2冊取り出して中身を見比べれば、パッと見、全く同じもののように見える。文を解読して初めて、内容や個性を知ることが出来る。

 

文は、読んで想像し、意味を理解して初めて情報を得られるものだから、情報そのものを表している色や形とは全く性質が異なり、読まない限りは全く無意味な記号の集合に過ぎない。

ふと気付くと、じゃあチラシや雑誌等、色形の中に文を組み込むデザインは、相当高度な技術である気がしてくる。"読むもの" と "観るもの" の両方をうまい具合に擦り合わせないと、完成しない。

 

文筆家が、文だけを "観るもの" としてデザインした作品で、山村暮鳥の『純銀もざいく』を思い出した。

全27行の詩中、24行が《いちめんのなのはな》で埋まっており、詩そのものが一面の菜の花畑を表現している。

緻密な描写や接続語を多用する長文散文とは違い、詩や短歌の世界での「文」は、"読むもの" でありつつ、デザイン可能な珍しい位置付けなのかもしれない。

 

文・文字を "観るためのデザイン" にしたものを「タイポグラフィ」と呼ぶ。

"読んで理解するもの" から脱却したその姿に、妙にドキドキしてしまうのである。

secret.[click].