遺書_2

SNSに愚痴を書き込み、他人に公開する行為がずっと理解出来ず、それは、元々「感情を文章化する習慣」が無かったからだとばかり思っていたのだけど、最近になって、自分も感情をそのまま文字に起こすこと自体はやっていて、ただ「日常的に」やらないだけであることが判明した。


年に数回、感情的に書き殴る時は決まって、ノートの白紙のページにタイトル「遺書」から書き始めている。

この世と人間に対する、理不尽で自己中心的な不平不満を、「例えば今死ぬなら何を好き勝手言おうが許される」だろうから「遺書」なだけであって、その後実際に死ぬのかどうかは全く関係が無い。


一般的に愚痴は「日常的に小出しに書き出していくもの」であるが、私の場合は「全部を凝縮して書き残してやる」だけで、両者とも世の中への憎悪を文字に起こし、見せつける「他人」の存在を意識しているという点に変わりはない。

ただ、「日常的に無差別多数に愚痴をこぼす」か、「『遺書』から始まる煮詰まった復讐心を、発見してしまった不運な1人に読ませる」かで比べてみると、まるで私の方が酷い人間かのように見えます。

濃度と頻度の問題。