遺書

元々引きこもりなので、世界が外出自粛モードになる前から毎日暇していたけれど、今日は特に、群を抜いて暇なので、だから遺書でも書こうということにした。

遺言書ではないので、法的なことを気にする必要がない。気持ちの問題である。しかし、そもそも気持ちが無いので困ってしまう。取り敢えずSNSのパスワードをまとめて、死後全て削除してもらおうとしたけど、全然集中出来ていないので何回も書き間違える。4回目で、面倒くさくなってやめた。ノートを4枚ダメにした。

 

大体私は「自分が死んだらそれが世界の終わり」という謎理論(自論)を信じているので、よって、私が死んだ後、遺書を読む人間は存在しないと本気で思っている。

人間は主観でしか世界を見られない。相手の目線を想像することは出来ても、結局自分視点でしかモノを見ることはできない。だから私の視野の外、例えば今この瞬間に家の前の道路を誰が歩いているかなんて分からない。わからないのは、存在しないことと同じだ。自分が見ているから、目の前の世界は存在している。でもその瞬間、背後がブラックホールじゃないという確証は、どこにもないのである。

自分が死ぬということは、自分が見ている世界が無くなるということだ。自分視点でしか見ていなかった世界が無くなるのは、世界の終わりと同じことで、万が一あなたが見ている世界が続いていたとしても、私が見ていた世界は終わった。だから遺書は必要でないと思った。あなたのことは、知ったこっちゃない。

同じような理屈で私は「世界は5分前に作られた説」も 「実は自分は実験室の培養液に浮かんでいる脳で、人生ゲームをさせられている説」もあり得ると思っている。「自分が生きて存在していること」がどの「現実」で「事実」とするのかを確かめる方法は無い。死んだ後に「いや〜73年でゲームオーバーだったわ〜」って目覚めるのかもしれないけれど、だとしたら今頑張って生きているのが馬鹿らしくなってしまうので、それは何だか虚しいから、培養液説はちょっと嫌だ。

 

とにかく、遺書を書くのは辞めようと思った。存在しているかすら曖昧な「今」が終わって、あるかもわからない「自分が居なくなった世界」に置いていく言葉など、無い。

今は取り敢えず、そういうことにしておく。

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