アズサてやんday

六帖アズサのブログ

芸術論(阿呆)

私はお絵かきが好きだけど、人間と風景が描けない。じゃあ何を描いているかというと、丸とか線とか点とかを描いている。


絵描きのtwitterをいくつかフォローしているから私のタイムラインには絵と、そこについてくるアツアツの芸術論と絵描きの「伝えたい事」が流れてくる。

私は絵で伝えたいことが特に無い。それは踊りでも文章でもそうで、最初から最後まで自己満足。日舞は2歳からやってるからそこそこ上手いけど、だからといってその技術を使って伝えたい想いは、無い。

絵はちまちま描き足していけばなんとなく良い感じのものになって完成するから、それがちょっと面白いから描いている。決して孤独感とか虚無感とか暗い辛い過去とか世の中に叫びたい気持ちとかをきっかけにしているわけじゃない。


第一、そんなに精神的に募るモノがあるなら、好きなもの好きなだけ食べたり、カラオケで熱唱したり、壁殴ったり窓ガラス割ったり、ラクして解消できる方法は幾らでもある。

わざわざ何時間も机にかじりついて、肩凝らせながらカリカリお絵かきなんてしない。大変すぎる。


最近は特に、何でみんなして「作者の気持ち」を知りたがるのか。

作者のプロフィールから顔から人柄からプライベートから作品の作り方まで、そんなものを知ってどうするんだ。作品は今目の前にある1枚だけなのに、どうしてそれに理由付けが必要なのか。

漫画とか小説とか、作品そのものにストーリーがあればその "作者探し" も必須じゃないかもしれない。

作品が絵1枚だけの状況で「そのものの良し悪し」を見ない人間がたくさんいる。

 


これは去年、彼ピッピと藤子・F・不二雄ミュージムに行った時の話。

ミュージムの庭に名物の「きこりの泉」がある。ドラえもんの(詳しくは知らない)泉から「綺麗なジャイアン」が出てくるシーンを再現できる遊具で、井戸の手前に付いてるハンドルをぐるぐる回すと、ドプドプいいながら水の底から綺麗なジャイアンが浮き上がってくる仕掛け。

ミュージムに来たらみんな寄る人気のスポットだから、井戸の周りに親子連れとカップルが長い列を作っていた。

もちろん私達も並んだのだけど、どうも皆んなが一生懸命ハンドルを回してジャイアンを浮き沈みさせる光景が滑稽すぎて、並んでる間中2人で笑い転げていた。

並んでる他の皆んなは何で平然としていられるのか、不思議だった。でもそりゃあそうだ。藤子・F・不二雄先生の、ドラえもんの、有名なシーンの遊具だから納得せざるを得ない。

私達のゲラゲラは雰囲気ぶち壊しである。


でもそんなこと言ったら、コメディ作品とギャグ作品でしか笑えないのか。シリアスな作品の「それはどうなの」っていうような演出で吹き出しちゃいけないのか。著名な作家の新作がすんげえキモくても「やっぱり素晴らしい」って言うのか。


作品があったらそれ以上でも以下でもなく、「そのもの」しかないんだから、作品だけ見ればいい。

見てみて、自分が「面白くない」とか「下手だ」とか「キモい」とか「クソ」とか思ったら、その作品は間違いなく「面白くない」「下手」「キモい」「クソ」作品なのだ。少なくともあなたにとっては。


だから、自分がモノをみて率直に感じた感想を否定しなくて良い。

ましてや「この作者はこんなハンデを負って生きてきたから」とか「こんな想いを込めているらしいから」とか「すごく偉い人か作ったから」とかを理由に自分の感想を揉み消さないで欲しい。

作者が求めているのは、自分の作品を見た人の率直な感想である。

 


人生で初めて出した絵のコンペで、審査員から「何故これを描こうと思ったのか。何となく、なのか。見る人のことを考えましょう」と返ってきた。

なぜそれを描いたのか、理由が無ければ見る人は困るらしい。

コンペだからてっきり、「下手ですね〜」とか「熱量が足りませんね〜」とかそういうのがくると思っていた。絵を描く理由があって初めて、評価されるらしい。


理由が無く、これからも生まれそうにない自分は、人に見せられる絵は描けないということだ。一生自己満足、一生マスターベーションである。

自己満足に偶然価値が付いたらラッキーだ。"あわよくば" お金になればいい。ファッキューファッキュー。


阿呆の戯言。